2010年

  • 12月29日(水) (岡山市の歳森さん ありがとうございました。)
    一か月前、石田家を訪問された岡山市の歳森さん(昭和12年3月20日生まれと封筒に記述されていました)が、「昔の歌が大好きで、同じ年代の人とカラオケでいつも歌っています。」と言われので、「戦前の歌を含め、昭和35年までの歌をCDに入れており、送ってあげましょう。」と約束したので、CD(1枚で22曲くらい)10枚(発売年、曲名、歌手等の一覧表を見ることも出来、ダウンロードもできます。場所は、「管理者の独り言」です。)を送ってあげました。過日、小包でお礼状とともに、趣味と言われる鉄道水彩画(とても素敵な絵です)と海の海産物が届きました。ありがとうございました。
    手紙を読ませていただき、CDをさしあげて本当によかったと、思いました。その手紙の全文を、ご披露いたします。
      拝啓 年の瀬も近づき何かとお忙しいかと思います。 さて先般 貴家先祖の石田家住宅を訪問の節には大変お世話になりました。その時流れていた懐かしいメロディーに、貴方の懐メロ談議に花が咲き、旅先で思いもよらぬ出逢いに、今までの人生の中で、あまり経験のない喜びを感じたところです。
      又、先日は貴方様のが約束して下さったCDが届き、年代毎に収録された名曲の数々を、懐かしく聴かせて頂いているところです。
      昭和20年6月29日は、私の生まれ育った岡山の街も、米軍のB29大編成の空襲で、市街の70%が焦土化し、当時8才の私が焼け野原を裸足で走り回っていた頃が思い起こされました。
      並木路子の「りんごの歌」や「東京の花売り娘」等が懐かしく、涙しながら聞かせて頂いております。
      貴重な数多くのCDをいただき、誠にありがとうございました。私の残された人生の財産として、終生大事に拝聴させていただきます。ありがとうございました。

       
  • 12月28日(火) (萱は、鹿と天候のおかげで不作に、、)
    今年は暑さが長引いたため、萱が枯れるのも遅くなりました。
    国の重要文化財も寄付しない限り、修復等があると必ず個人負担が生じます。誰も住んでいないけれど、萱の葺き替え等の場合は、かなりの負担を強いられます。(平成10年の修復時には、萱の葺き替えに約1,000万円、その他で400万円になり、35%の負担をせよとの話があり、美山町側と紛糾しました。)
    年金生活でもあり、それを少しでも軽減させるため、萱を刈り取って乾かし、そして収納しておく。葺き替えがあり負担金がある時に、この萱を売却して負担金の一部に充当します。
    しかし、数年前から、この萱の新芽を鹿が食べ尽くすようになり、たくさんの萱を確保することも出来なくなり、今年も僅かだけでした。
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    適当な大きさの萱だけを集め、結んでおく           

    まだ枯れていない緑の萱は刈れない(乾かしても腐り易いため)           

    草類はすべて取り払い、春まで乾かしておきます。今年は、これが三つだけです。        

    黒豆のようですが、これが植物を食べ尽くす「鹿の糞」ですよ。 


       
  • 12月23日(木) (盲目のシンガーソングライター 板橋さんから便りとCDが送られてきました、、)
    11月4日に記述しました板橋さんに、NHK−ラジオ深夜便で放送された「板橋かずゆき」さんのインタビュー番組の録音CDがあればと連絡し、先方から住所をお知らせ下さいと言われていました。
    その返信がとても嬉しく、もうすぐ出来ると思っていた隼人ウリの漬物も送って正式な送付をしようと思っていました。
    今年の天候のせいか、11月が終わっても中々成熟せず12月になったため、仕方なく数千円の切手を入れて手紙を書きました。
    住所をHP上で探すことが出来ず、書けずにいましたが、昔、会社生活をしていた頃に、ギターを教えていた元女性会社員がむつ市に嫁いで、今も年賀状の交換をしているMさんを思い出し、彼女に手紙(江美ちゃん等と手紙に書いてしまいました、、)を託しました。
    彼女から葉書が到着し、自宅から近くだったので持参されたようです。板橋さんのお母さんがとても喜んでおられたとの記述がありました。その後、板橋さんから小包が届き、お願いしていたCDを始め、思いがけない数々のCDやコンサートDVD等が入っていました。ありがたいことです。
    やっと、先ほどCDを全て聞き、DVDも見ました。DVDでは「親子の絆」をとても感動的に写し出しており、涙が出てしまいました。ありがとうございました。

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  • 12月19日(日) (警察官5人に囲まれ「Sさんですね?」と、、)
    M市O町で、女性がアパートでめった刺しにされ、亡くなったと新聞報道されたのが18日だった。ここからすぐ近くでした。日曜日の昼過ぎに畑(殺人事件場所から直線で5〜600mくらいかな)に行くと、私が借用している畑に警察官が5人いた。近づくと一人が、「Sさんですか?」と言うので「そうです」と応えた。「ここにある包丁はどなたのですか?」と質問された。昨日ヤーコンの茎から上部を包丁で切り、収納するのを忘れていたものだったので、「私のです。昨日使い、忘れていました。」と応えた。それを聞いたリーダーらしき人が、今回の事件の本部らしき部署に、この包丁の所有者と事情を報告し、事件との関連性の少ないことを説明していた。
    誠実そうな??対応とルックスで、即疑いらしきことは晴れた。ホッ

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  • 12月14日(火) (うれしい市役所採用試験に合格連絡)
    この2カ月の間に、来年春卒業する大学生から、就職先が決まりましたと連絡がありました。
    3年生の時に、キャリアコンサルタントとして週2回勤務していた大学の学生が、南丹市役所、彦根市役所に。石田家でインターンシップの実習をした神戸大学の学生は、裁判所も合格したが、草津市役所に決まったようです。
    就職活動に伴うエントリーシート作成等の助言を多くの学生にしてきましたが、こうして連絡していただくと、本当にうれしいものですね。

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  • 12月 2日(木) (地デジ対策で、お客様対応の違う電気店)
    自宅のテレビは各部屋にあり5台ある。子どもが1台40型を買ってくれており、残りをどうするのか考えず放置していたけれど、エコポイント、リサイクルポイントやらで、台所用として22型を購入しても2万円代で購入できるものがあり店に行った。
    大手のY電機では、11月最後の週末商戦で混み合っており、店員の応対も順番待ちとなった。
    その間、22型のテレビも色々と見て、購入する商品も希望順を決めた。結局約1時間経過して店員と話をすることができ、希望していた商品の購入をお願いした。そうすると、「それは商品がいつ納入されるかわかりません。エコポイントも申請が遅くなると、該当しなくなることも考えられます。」と言うので、希望順位を順番に言うと、ほとんどの商品について同様に言われた。購入できるのは22型では、8万円近い商品だけだった。
    「止めた。」と言いながら店を出ようとして、また舞い戻り、「日頃、お客様は大事だと言われているけれど、大切にするのであれば、陳列商品に「品切れ 入荷予定不明」とか「遅くなるとエコポイントも難しいかも」とか記述して掲示するのがお客への親切心ではないのかな?」と告げた。
    その足で同じくJ電機に行ったが、ここも品切れだった。しかし、この店は、各テレビに「入荷予定」やエコポイントの今後の予想などが表示してあった。
    Y電機には、会社が大きくなり、驕りがあると感じる。

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  • 11月25日(木) (唐辛子と山椒の実を混ぜて)
    昨日滋賀に帰る前、文化財の二階や周辺、本宅を囲う防御ネットに、唐辛子と山椒の実を混ぜてものをたくさんまいた 。
    文化財の二階に大きな糞がいつもあり、想定されるのに、アライグマのものではないかと言われていた。出入りしそうな場所に、この特別品をまき散らした。防御ネットにも同様にまいた。
    と言うのも、先日猪が侵入した場所に、唐辛子をまくと、侵入が収まったのです。一昨日、冷蔵庫にあった1年前のおはぎ(食べられなかった)を解凍し、中に唐辛子をふんだんに入れて おにぎり状態にした。それを容器に入れて、少し蜂蜜をかけて、防御ネットの外に置いていた。昨日早朝点検すると、おはぎは無くなっており、その周辺には、暴れまくったのか、たくさんの足跡があった。多分、大暴れしたのだろう。
    近所のおばあさんに話をすると、「そうらしいな。来年から、唐辛子をたくさん作る。」と言っておられた。小生もそうしよう。
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  • 11月23日(火) (「猪をさばきませんか?」と言われ、、、)
    20日(土)に石田家に来て、近くで毎日のように猪が獲れているようだ。向かいの山裾(60m〜70m離れた所)にある檻にも入り獲れたようだ。その檻に昨日熊が入ったらしいが。檻の上部に抜け道があり、熊は逃げるらしい。猪は立つことが出来ないので捕獲され、射殺される。
    道路の枯葉の掃除をしていると、猟をされるTさんがトラックで通り過ぎようとされたので挨拶をした。荷台に2頭の猪が血を流して横たわっていた。「2頭獲れましたが、1頭差し上げますので、さばきませんか?」と言われた。突然のことで、思わず声が出なかったが、丁重にお断りをしました。さばく勇気がありません。ごめんなさい。獲れ過ぎで、1頭は埋めると言われていました。

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  • 11月10日(水) (お礼状が来ました)
    11月5日に石田家におこしになられたご夫婦(苗字はYさんでした)から、お礼の葉書が来ました。大変嬉しく思いました。こんなことが記述されていました。
           
      宇治から車を走らせては来ましたが、周囲は網(防獣ネット)が張ってあるし、軒下から煙が流れはしているが見学は無理だと私たちが諦めかけていました。でも挨拶をしたところ、心安く見学のお許しをいただきました。
      囲炉裏の傍に腰を下ろし説明をお聞ききし、気が付くと、何とも言えぬ気分の落ち着きが、時間の流れと共に、懐かしい、心豊かな気持ちになっていました。これも、このお家の持っている優しさでしょうか。とても、そのことが嬉しくなってしまいました。
      ふと時間を見ると、お昼を大幅に過ぎており、そのようなことも忘れて、その世界に入っていました。申し訳なかったです。
      そんな私たちでしたのに、帰る折には、野菜のお土産を持たせて下さり、重ね重ねありがとうございました。
      その上、NHKの深夜便を編集されたCDを、車中で聞けばと持たせて下さりました。早速二人して声を出して歌い車を走らせました。お陰様で、とてもとても幸せを感じた嬉しい1日となりました。ご親切身にしみております。取り急ぎお礼まで。
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  • 11月 7日(日) (猪が百合の球根を探し求めて荒し回る)
    3日から昨日まで本宅の入り口付近の屋根伝いに、透明の波板で4尺ほどの軒下を作りました。これで、雨の日でも色々と作業が出来ます。嬉しい。
    (費用は、セメント・砂・バラスで、約20,000円、波板は約5,000円、材木が約5,000円、防腐剤入りペンキと刷毛が約3,000円等でした。)
    昨日は、邸内を荒し回る猪除けの柵作りばかりでした。邸内の狭い畑は写真のような状態でした。下の畑では、長芋を食べるのに、1m近く掘っていました。
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    道路から防獣ネットの下を掘って侵入し、鉄砲ユリの球根を掘って食べられた  道路から防獣ネットの下を掘って侵入し、鉄砲ユリの球根を掘って食べられた

    道路から防獣ネットの下を掘って侵入し、鉄砲ユリの球根を掘って食べられた

    セメント工事が終了し、屋根付け工事前の状態  完成後

    セメント工事が終了し、屋根付け工事前と工事完了後  
       
  • 11月 6日(土) (出雲市から見えた3名さん 方言に親近感を覚えましたよ)
    出雲市から男性1名、女性2名の方が見え、よく知っている出雲市のことを色々と話をして、とても親近感を覚。えましたよ。

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  • 11月 5日(金) (宇冶市から見えたご夫婦に野菜とCDをあげました)
    土日祝日以外は、いつも閉館していますが、小生がいる時の訪問者には、極力対応しています。
    昨日、結構多くの方が見えましたが、小生がいるにも関わらず声をかけて「見せてもらえないでしょうか?」と言われた人は、一組のご夫婦だけでした。
    少しの会話だけで、なんとなく和むように思えました。ご主人は昭和19年生まれで、奥様は昭和25年と言われていました。野菜とCDを差し上げると、ご主人が、「最近感動することがなかったが、今日の出会いに感銘を受けました」と言われ、大変嬉しく思いました。いつまでも仲良くね。
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  • 11月 4日(木) (盲目の歌手 「板橋かずゆき」からメールが来ました)
    10月30日午前4時5分から、NHK−ラジオ深夜便で、「板橋かずゆき」さんのインタビューを放送していました。どういう人かも知らず、録音もしていなかったのです。パソコンに向かいながら聴いていると、すばらしい話しをされており、録音しなかったことを悔やみました。それほど感動の放送だったのです。
    ホームページがあり、コメントを入れ、放送されたテープがあればと記述しました。
    板橋さんからメールが来て嬉しくなりました。メールに、「石田家を訪問したい」、「録音したものを送るので住所を連絡下さい」とのコメントでした。感激しました。返事をいただき、ありがとうございました。


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  • 11月 2日(火) (白菜を漬けました)
    畑でいつも言葉を交わす無比の友、N氏が、作業をしていたので近寄ると、早生の大きくなった白菜を掘り起こして土の中に埋めていた。先週大きいものをいただき、鍋料理に使用したが、虫が結構ついていた。
    「虫が付いているので捨てる」と言うので、漬け物にするからと言って、大きいのを3つもらった。それを丁寧に洗って、全て虫のいない状態で干した。渋柿やリンゴの皮がまだ十分確保できていないため、昆布をたくさん入れ、塩分3%で漬けた。今日朝には、水が出て、昆布のいい香りがした。美味しそう、、。

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  • 10月27日(水) (銀杏は誰が取っていったのか?)
    9月頃、滋賀県の自宅近くにある銀杏の木から落ちた銀杏約40個を拾い、約一か月美山にて水に漬けておいた。マツタケの季節でもあり、茶碗蒸しに使おうかと思い置いていたものだが、24日(日)、ふやけてきたのでゴム手袋(数年前、僅かな銀杏を洗うのに、ゴム手袋を使用しなかったことがあり、翌日から、あそこ(??)が膨大に腫れてしまい医者に行ったことがあった。現状復帰に一週間を要した。銀杏は素手で触らないように。)を着用してきれいに洗った。それをラップで包んで台所に置いていた。
    25日の朝、台所を見ると、銀杏が全て無い。「おかしい。確かに前の日に置いたはずだが、どこか他の所に置いたのかな。いや台所だ。」と思いつつ、冷蔵庫の中等を探すお年寄りでした。よくよく見ると、台所には包んでいたラップだけが残っている。辺りには銀杏らしきものは見当たらないが、少し腐りかけた色をした銀杏が、2個見つかった。何かが、そこでは食べずに、どこかに持って行ったのか〜〜トホホホ。食べ物は、きちんと収納することが肝要です。
    「失敗は、いつも勉強」と自分で自分に言い聞かせ、納得しています。

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  • 10月24日(日) (マツタケの収穫は?)
    ニュースによると、全国的にマツタケが豊作で、「庶民の口にも入るか」等と報道している。昨日、親戚が来て山に上がった。
    鈴と笛だけしか持たずに登って行った。当家では、クマ出没の話や、毎年、鹿が食べ始めたこともあり、ここ数年は、毎年数本しか収穫していないため、誰もついてこない。
    一人で登る時には、リュックを背負い、新聞紙を丸めて先端に灯油を染み込ませ持参する。他にもナタ、笛、ラジオ、携帯等も持って行く。多少の防御策はしなければならない。一人で登ると、小さな音にも、かなり敏感になってしまう。でも、登る。収穫物の写真は、後日(食べ終わった頃)掲載します。

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  • 10月23日(土) (美山町ではクマが出没しています)
    23日の15時過ぎに、近くでクマが出没したと有線放送で注意を呼び掛けていました。気をつけて下さい。

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  • 10月20日(水) (年賀状を250枚購入しました)
    今年も年賀状の販売時期に成り、郵便局(アルバイト職員にも販売努力目標があると言われ、おじさん(自分と余り年令が変わらないかな?)から購入依頼があり、250枚購入しました。
    一言も裏書きのない親族、特別の友人を除いては、「心のこもらない差し出すだけの毎年年賀を止めましょう」と言い続け、ここまで少なくしました。
    「生きているよ」との、連絡の証としての年賀だけは止めたい。今年も昨年よりは少なくなります。

  • 10月14日(木) (猪に畑を荒らされ)
    9日(土)に石田家住宅の下の畑(この2年間で開墾した約100坪)に白菜、キャベツの苗(種から育てた物)を植えた。
    12日(火)に畑に行くと、畑が荒らされ、サツマイモ・長芋だけが猪に食べられていた。白茄子・ピーマン・万願寺には目もくれていない。里芋とヤ―コンは食べていなかった。早速、破られたトタン板を補強し、防獣ネットも更に追加して万全の体制を整えた。
    13日(水)に、帰る準備をして白茄子やピーマン等を採取するため畑に行くと、またしても猪が入った。補強した場所以外で、錆びたトタンを、またもや破って侵入した。今度は里芋がすべて食べられていた。とてもショックを受けたが、「猪や鹿等には負けるものか」と、対抗していく気持ちが強くなった。
    近所の人に聞くと、「他の家では、もっと早い時期に荒らされており、他の畑に食べるイモ類が無くなり、あんたのところは最後に来たのではないかな?」と言われ、この地区では、私は若い方なので頑丈な畑の囲いを作っていたことに満足した。しかし、猪は地中を掘ってでも目的地に行く(長芋は畑の地中を1m近くまで掘っていた)ので、電気柵も検討してみよう。

  • 10月 9日(土)A(鹿が防獣ネットに)
    午前4時頃に、鹿の鳴き声がかなり長くした。遠吠えのように、夜明け前に鳴き声を出しますが、今日の鳴き声は違う。
    夜が明けると、トンビやカラスが、下の田んぼに集まってきていた。どうも鹿が防獣ネットに巻かれて死んだのかなと思い、下に降りた。血が流れていたが、死体のほとんどは無かった。既に食べられたのだろう。
    生きていたら猟師に連絡するのだが。今なら行政が処分費用として猟師に2万円支払うらしい。

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  • 10月 9日(土)@(山口百恵さよならコンサートの最後に、「これから、精一杯さりげなく生きていきます」)
    美山でも、朝が早い。まだ午前2時前。トイレの窓から大きい懐中電灯を下の畑や向こうの山の斜面を照らすと、何十もの鹿の眼が光る。
    眼が冴え、いつもラジオだけですが、誤ってテレビのスイッチを入れてしまいました。NHKで、SONGS「山口百恵 part2」の再放送を放映していた。引退時の最後のコンサートで、「これから、精一杯さりげなく生きていきます」と言っていた。すばらしい言葉に感じた。
    人生は、これでなくちゃ。

  • 10月 5日(火) (「荒城の月」、「庭の千草」、「旅愁」の歌に酔う夜明け前)
    3時過ぎに目が覚めた。いつものようにNHK−FMラジオ深夜便を聴く。今日は「幼き日の歌:〜童謡・唱歌・抒情歌集」だった。久しぶりに聴く「庭の千草」や「旅愁」の歌を聴きながら郷愁の思いにしたった。「荒城の月」は、作詞が土井晩翠・作曲は瀧廉太郎だ。
    すばらしい曲に酔いしれ、ふとカーテンを開いて外を見たが、曇り空だった。

  •  9月26日(日) (思わぬところでネズミ捕り)
    8日ぶりに昨日自宅に帰った。
    美山町から京北町への道筋で、今日もネズミ捕りをしていた。京北町方面から美山方面に急ぐ車は、田舎の山中でもあり地元の人以外の車両が、ことごとく取り締まられていた。制限速度50kmだが、70km以上は出ているようだ。ひかからないようにライトでパッシングをしてあげた。たまに窓から手を振り、「ありがとう」と感謝する人がいるけど、最近はパッシングもしなくなり、冷たいの。寂しさを感じま〜〜す。
    琵琶湖大橋を堅田方面から走行していると、前を走っていた県内のO運送鰍フトラックが、堅田方面からの登りでは飛ばしていたが、長い下りになると減速した。
    「ネズミ捕りかな?」と感じ、小生も制限速度に減速した。案の定、橋の上にレーダーがあり、料金所の近くに警官がいた。近江大橋でもしていますね。
    北海道では、ラジオの民間放送で、交通取締情報を流していますよ。6年前、夫婦で舞鶴港からフェリーで北海道に行き、道内(利尻、礼文も)二週間以上、東北四大祭り(現地の人は山形市の花笠踊りも含めています)巡りを一週間車で回りました。(キャンピング旅行で3〜4日に一度ホテルで、他の日はテント生活とともにキャンピング用品を持参して自炊)
    北海道の民放が、「○○町方面から県道○号線を△△町方面に向かう車は、スピードに注意して走行下さい」とアナウンサーが番組途中で言う。これがネズミ捕り情報なのです。ドライバーから放送局に携帯や電話で交通取締情報を連絡しているようです。
    青函フェリーで本土に入ると、どこの放送局もそのような情報は流していません。(ご参考でした)

  •  9月20日(月) (セメント工事)
    石田家には、文化財とともに、居住する家があります。軒下で作業するために、コンクリートを敷き詰めて屋根を作る計画で、石田家住宅所有者と共に作業をした。コンクリートの下塗りは「セメント1、バラス2、砂3」でいいところを、「セメント1、バラス 、砂 とした(セメント量が多い)ため、19日工事、20日には乾いてしまいました。別の日に上塗りをしてセメント工事は終了です。
    (ご参考)「赤い数字の「1」」を表示するためには、30の数字と記号を入れなければなりませんので、大変。でも、がんばります。

  •  9月15日(水) (石田家に来られた香芝市のご夫妻の奥様から手紙)
    玄関に来ていた手紙を見忘れていました。女性の文字で、差出人を見ますと、過日石田家に来られ、白茄子とCDを差し上げたご夫婦の奥様(ご主人からはメールでお礼をいただきました)からでした。
    お名前は、ご主人の氏名K.T.の横に「内」と記述されていました。この書き方を見て、教養深い方のような気がしました。
    お礼状と共に商品券が入っており、驚きました。大変恐縮しています。誠にありがとうございました。返礼を致す予定です。
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  •  9月11日(土) (結婚式で飲み過ぎ)
    父親としての役目は、披露宴で皆様にお礼を言いながら注ぐことかな、、、。注いで、注いでもらい、注いで回り過ぎ、終了してから自分も回ってダウン。とても、いい1日でした。

  •  9月 9日(木) (今夏の夜は二度冷房を使う)
    昨夜から、いつものように1階で窓を開け扇風機で寝ていましたが、寒気を感じて窓も閉め、扇風機も止めて寝ました。遂に熱帯夜も終わりか?
    冷房嫌いでしたが、今年の夏は、二度だけ冷風を2部屋向こうから入れて寝てしまいました。こんな話を周辺の人に言いますと、「冷房無しで、よく生活が出来ますね〜〜」と言われます。でも、美山町の家では、冷房機器そのものはなく、扇風機と団扇(うちわ)だけですよ。

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  •  9月 8日(水) (「白茄子は最高の味でしたよ」と何人もの看護師さんからお礼の言葉)
    一か月に1回、近所の医者に行きます。いつぞやY先生に「畑で野菜がたくさんできたら持ってきますよ」と言ったことがあった。
    人は一度口にした小さな約束事でも、必ず実行すること
    をモットーにして生きていますので、白茄子と胡瓜をナイロン袋一杯、先週持参した。
    昨日医者に行くと、何人もの看護師さんから、「白茄子は初めて食べた」とか、「言われたように3cm程度に切り、塩、胡椒、バターで焼いて、味噌か焼肉のタレで食べると最高の味でした。」と絶賛された。一人の方は、「ポン酢で食べると、また違ったいい味でしたよ。ありがとう。」と何度も言われた。
    何かを他人にさしあげて、その結果の話とお礼を言われると、またあげたくなりそう〜〜。
    昨年秋遅く、石田家で「ヤ―コン(糖尿にいい芋です)」をあげた人が、「三田市では購入して食べています」と言われていた。その後、ご丁寧なる礼状をいただきました。このような几帳面な方は、今はもうほとんどおられません。だから今年は、礼状のお礼をこめて送ってあげようと考えています。
    自分の行為で他人に喜んでもらい、その便りを聞いて満足です。

  •  9月 6日(月) (おじさんの送り火)
    草刈りをして枯れたものを集め、8月に逝った一人暮らしおじさんを思いつつ、石田家住宅の下で送り火を放った。

    石田家住宅の下で送り火来年の迎え火を待っていて下さい。

    送り火を見守る 不要衣類で作られた人形達(獣も驚くとか)周辺の人形も見守っていますよ。


  •  9月 6日(月) (石田家見学者に白茄子とCDを)
    この連休に、ご夫婦で奈良県香芝市から見えた方で、ご主人さんが小生と同級生がおられた。すぐ調子に乗って話をしてしまいます。畑から大きな白茄子を差し上げた。音楽も好きだと言われ、NHKラジオ深夜便を録音したピーターポール&マリーとブラザースフォーの曲が入っているCDを差し上げました。仲良く聞いて下さい。

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  •  9月 4日(土) (味噌漬けの焼き魚を作る)
    最近、何度も小浜漁港経由で石田家に行っている。
    小浜漁港の隣にある10軒程度の鮮魚店が、ひとつ屋根の下で、とても安価な魚を販売している。漁港で競り落とし、それをトロ箱単位(そうでない物も販売)で販売している。
    今年の長雨の後からの猛暑により、魚も数量が少なくなってきたし、そのせいで高くなっている。
    今日は、それでも、30cm程度のつばすが10匹700円だったので購入した。
    それを三枚下ろしにして骨を取り、酒、砂糖、味噌で味付けをして冷蔵庫に寝かせた。
    1日寝かせて味を染み込ませ、ラップに包んで冷凍にした。焼き魚として食べます。最近、よく人にもあげて喜んでもらっています。
    そうそう、内臓、頭、骨類は、それぞれ別々にして冷凍にしました。内臓は酒の肴に最高ですよ。一度お試しあれ

  •  8月28日(土) (行きつけの医院に野菜を持参)
    今年の夏野菜は、たくさん出来過ぎでした。毎日、胡瓜、茄子、万願寺、ピーマン、ゴーヤ、トウモロコシ等を食べても余るため、人にあげています。
    あげた後、「美味しかった」とか、「こうして食べました。」等と褒められると、また野菜をあげてしまう。
    7月終わりに、毎月通う行きつけのY医院で、「胡瓜の苗がたくさんになり、来月は多く採れますから持参しますよ」と言っていたので、昨日夕方、持参した。
    胡瓜、白茄子、ゴーヤをスーパーの袋一杯持って行くと、先生も喜んでおられた。看護師さん等、皆さんで分けると言われていました。野菜で元気になりましょう。

  •  8月20日(金) (顔が何度も目の前に出てきました)
    昨日は久々の勤務日でしたが、朝から寝るまで、故A氏の顔、語る姿が眼前に出てきた1日でした。
    よく考えると、通夜から葬儀までの間、弔問者は元勤務されていた会社の方が大変多かったのですが、立命館大学の学生も多く見かけました。この8年間、近くの居酒屋を通じて知り合い、学生の良き相談相手になっていただけたお爺さんでした。
    就職先からわざわざ駆けつけてきていた人、どうしても行きたかったが行けずに、友人に携帯メールで弔電を送り、受けた友人が棺の前で読見上げていました。
    それまで若者に親しまれた方でした。
    すばらしき方よ。高い空の上から、これからの若者を見つめていて下さい。
    おじさん しばらくおじさんとの想い出をここに書き記すと思います。身に覚えのあることばかりでしょうよ。

  •  8月18日(水) (無宗派としてのお別れ会)
    昨夜の通夜と共に今日、最後のお別れ会は11時30分から。打ち合わせの9時過ぎに葬儀場に行くと、「今日のお別れの言葉もしてもらうのでよろしく」と言われた。どうも昨夜の晩さん会で、そういう話になったらしい。「します」と言ったかどうか記憶になかったが、そのようなストーリーが出来上がっていた。
    一人暮らしをし始めて、小生が料理を作って食べてもらった話しや、自宅からおかずを電車に乗って何度も持って行った話し。好きな梅干しが無くなったと聞けば、また電車で持参した話。その梅干しが年度途中で毎年無くなるため、今年は切らさないようにたくさん漬け、嬉しく小生にお礼を言っていたこと。
    一言一言が最後の言葉だと思うと、また涙してしまった。でも最後は「大変お世話になり、ありがとうございました。」と告げました。ありがとうございました。
    小さな骨壷に入られた故A氏を見ながら、心の中でお別れを言った。

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  •  8月17日(火) (最後の晩餐)
    17日、葬儀場にて静かに横たわる故A氏に対面した。病室で見た表情とは違い、とても穏やかな顔でした。「安らかに休んでいて下さい。」
    号泣するかもしれないからとお断りをしましたが、お別れの言葉を通夜に述べることになりました。やはり、最初の言葉を発した時から、次のことが思うように言えませんでした。とても辛い数分間でしたが、何かしら私の気持ちも届いたのだろうかと思いました。
    棺の傍で、ご親族の方々と最後の晩さん会に参加させていただきました。思い出話を語るにも目から溢れるものが止まらない。それを見るだけで、また涙。話の内容によっては、その時のことを思い出す楽しかった笑いあり。悲喜交々多き時間が過ぎました。

  •  8月16日(月) (「父が本日未明に亡くなりました」)
    この盆を過ぎるまで持つかなと思いつつ萩に帰省しましたが、娘さんから電話があり、草津市に住んでおられた以前勤めていた会社の例の一人生活おじさんが亡くなられました。
    急遽、滋賀県に帰ることにした。
    580kmの工程を運転しつつ、この数年で亡くなられた、小生にとって、極く身近な方々に共通するものが浮かんできた。みなさん、他人を叱ったり怒ったりする姿を見たことのない人ばかりでした。私だけがそう思うのかもしれませんが、、、、

  •  8月10日(火) (小さな畑のトウモロコシとさつまいもが猪のお腹に、、、)
    昨年から、少しづつではあるが、長年荒れていた田んぼを開墾して畑に変えてきた。鹿、猪等からの被害を防ぐためネットも張った。
    平地部分にはトタンを張り巡らしていたが、下の田んぼとの境は、1メートル程度の石垣があるためネットの上に、重い材木を置いていた。
    養分をたくさん施してきたトウモロコシが実り、そろそろ採り頃なので、美山に行った。
    畑のトウモロコシ、サツマイモ、長芋が、全て食べ尽くされていた。猪が、1メートルの石垣を登り、重い材木を押し上げて畑に侵入したのだ。
    チキショウ 残念。二度と入れないように、50メートル以上のトタンを張った。しかし集落の大半の畑はトタンがなく、ほとんどの家で猪の被害が出たようだ。150本のサツマイモを作っていた人は、畑を止めようかとも言っていた。

  •  8月 1日(日) (一人生活おじさん小生より6才年上なのに、「お兄さんですか?」と言われ)
    病室で世話をするので、看護師さんから「お兄さんですか?」と言われた。「え〜−ッ??」ショックでした。小生より6才も年上なのに、、、、、

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  •  7月31日(土) (一人生活おじさんに、飲まない薬を飲んでもらう)
    おじさんの病室に行くと、相変わらず食事はしていない(もう2カ月くらい食事をしていない。入院前はヨーグルトだけを1カ月)し、薬も飲んでいない。看護師さんも困っておられた。
    入院後急激に痴呆が進み、もう十分な会話もできないが、小生は覚えてくれている。
    無理やり、錠剤6、カプセル2、粉状の薬を飲んでいただきました。
    食事も、ニンジンを小さく橋で切り、サツマイモも無理に口に入れました。
    親族が近くにおられたら介護もでき、食事、薬のフォローが出来て、元気になられるのですが、、、。明日日曜日も、朝行きます。

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  •  7月31日(土) (石田家を墨絵で描かれた方の作品を見る)
    以前紹介しました守山市の墨友会の方が、展覧会を開かれていると連絡があり、石山寺の近くのギャラリーを訪問した。
    代表の方が、きれいに石田家住宅を描かれていた。ありがとうございました。

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  •  7月31日(土) (朝、CD9枚、訪問者に送る)
    この4月に石田家で出会った方から、二度目の手紙がきました。この人は、元警察関係者で定年退職された方だった。
    「石田家で懐メロを歌う会は、その後どうなりましたか。計画が決まれば連絡下さい」とのことでした。
    石田家で歌うとなれば泊りになるため、色々と話はしましたが、なかなかいい返事をもらえずにいました。いつになってもいいから、誘いの声だけはかけて行こう。実施日を相談して呼びかけましょうか。
    取りあえず 懐メロCD9枚を焼いて送りました。聞いて下さい。

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  •  7月30日(金) (「7月5日から更新されていませんが、次はいつですか?」とT女史に言われ、「更新したよ。 」、 「どこも変わっていませんよ。」   「え〜−ッ??」)
    仕事の関係で気になっている事業所に立ち寄った。いつも小生のHPを見ているといううら若きTさんに言われた。そして彼女が小生のHPを開き、「そうでしょう」。
    小生も、少し老人痴ほう症かな?
    前回更新してから、この事業所の若き経営者の自宅に苗を届けたり、その際にとても美人の若き奥様の手料理をご馳走になり、あのような若いお方が、このようなおじさんの話しに乗って併せておられ、すばらしき奥様だと褒めたことなどを、記述したワードのファイルは、どこにいったのだろうか。
    出来事を毎日、ワードで記述していた。そのファイルはどこだ。探したが見つからず、、、。とほほほお、、。」

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  •  7月 5日(月) (ウサギの墓に一礼)
    雨もなく久しぶりにランニングをした。少し前でしたが、野洲川西の土手沿いの道路をランニングしている時に、路上に動物の死体を見た。近くまで行って見るとウサギだった。何かの衝撃だけで亡くなったのか出血も無かった。
    カラスが飛んでいた。狙いを定めるようだ。
    近くに小生が借用している畑があるので、急いでスコップを取りに言った。スコップを持って急いでいたら、時々見る 歩く姿勢のいいお嬢さんと出会った。「ウサギが死んでいたので、穴を掘って埋めてあげるの」と話すと、「私も行きます」と言った。
    (彼女とは、時たまランニングの時にすれ違いになっていたが、数週間前に出会った時に初めて、「姿勢のいい歩き方をされ感心しています。とてもいいですよ」と声をかけたことがあった。)
    道路上には、車がウサギをさけて通行していたのでしょう。同じ状態で横たわっていました。スコップでウサギをよけ、道路の傍に穴を掘り埋めてやりました。
    そして合掌しました。その女性も、私と同様合掌していました。感動の一瞬でした。少しだけ一緒に歩き、「ありがとう」と言って小生は畑に戻りました。
    が、それを見ていた畑仲間の同年のN氏が、「朝から若い女性とデートかいな。あの娘は、あの家の娘やで」と言っていた。とにかく姿勢のいい、ウサギに合掌してくれた娘さんだ。
  •  6月22日(火) (佐久間良子に似た人)
    今日は午後から休みだ。K駅で下車して昼食を摂る。気になっている事業所があり立ち寄った。先週から雇用されたという女性がおられた。がんばって下さいよ。仕事の関係ですがO市にある事業所に、佐久間良子さんに似た方がおられる。過日ご本人に、「佐久間良子さんと言う大女優がいますが、とても似ておられますね」と言いますと、「佐久間良子さんを知らないんです」と言われた。ひと周り以上離れていると思われますが、年代の差を感じます。

  •  6月19日(土) (一人生活おじさん)
    昨日病院に来て、ワンルームマンションから持参して欲しいと言われたものを車に積んで、朝7時半に持参した。腹水が大量に溜まり、痩せこけたおじさんのお腹だけが出っ張っている。早く直して退院してや。

  •  6月13日(日) (久しぶりのサウナ)
    またこの二日間、お菓子、飴の食べ過ぎです。サウナで測ると、64.85kg。これは大変だ。71℃のサウナに10分を4回入る。63.1kgになって帰る。でも自宅でビールを3本。これで1kg戻ったかな。夕食は食べないようにしよう。
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  •  6月12日(土) (一人生活おじさん 遂に入院)
    昨日、小生がいない時に自宅に電話があり、「月曜日から検査入院することになった」との話であった。もうすっかりおじさんだ。このワンルームで生活を初めて8年。何もすることがないから結構朝からお酒でした。一人では、何もする気にならず毎日飲んでいた。何度注意しても治まらず、遂に肝臓を悪くして救急車で入院。これでお酒は断ち切った(実際は飲んでいたようですが、、、、)が、運動しないタバコ生活が続き、足が十分動かなくなった。先日、9時間の精密検査で、検査入院しなければならなくなった。異常があったから更に検査を継続するための入院だろう。入院に必要なものを色々と話をした。
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  •  6月 3日(金) (餃子チェーン店で店員に注意)
    月14日勤務の事業所で生活習慣病の検査があった。午前中で勤務を終了して、瀬田駅の傍の店に入った。餃子2人前、瓶ビールで食べていると、従業員が調理場の向こう向きに、缶に入った何かを指ですくい口に入れた。手を洗うでも無しに、他の客が注文した食材が出来ると出したりしていた。
    食事を終えて伝票を持ってレジに行く。傍で餃子の皮に具を包んでいた従業員がレジに来た。お金を支払うと、ナプキンで手を拭いて、また餃子を作り始めた。
    「ちょっと待ってよ。お金を触って餃子を包むのにナプキンを触るだけ?衛生的ではないな。そこの若い人。ちょっと来て。さっき調味料なのか知らないけど、指で舐めたよね。手も洗ってないのにお客さんの食材を出し続けていたよ。店長も時々、フライパンで調理している時、味ききのため使用しているしゃもじのまま口に注いで味を確認している。こ店は衛生管理に問題あるよ。」と言ってしまった。
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  •  6月 2日(木) (イチゴの食べ過ぎ。もういいよ)
    イチゴを畑で作り始め4年。今年は一段とおいしい。でも、もう食べ過ぎ。カニを食べ、甲ら等を粉末にして栄養を与えると、これだけ美味しくなるとは、、
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  •  5月23日(日) (「肺ガンの疑いあり。要精密検査」)
    生活習慣病の検査結果が届いた。レントゲン撮影の結果欄に、「肺ガンの疑いあり。要精密検査」
    その文字を見て、「遂にお迎えが来たか」と思った。その次に思ったことは「もしそうだったら長くて数年だな。」ということだった。
    早速、その間にすることをパソコンを使い整理をした。
      @ 肺ガンの場合、病床に臥すまでを最長5年と3年に分け、残された動ける時間で出来ることを整理した。
      ・家族への遺言(これは6年前に作成し毎年更新し、長期の旅行などの場合プリントして封書に入れて机に置いている。)
      ・個人で管理や登録している物件の整理(これも遺言と同時期に作成開始して更新しており、銀行口座や証券関係、インターネットに登録中の全ての登録データ、カード類等のID、パスワード等が記述してある)
            
      A 仮にガンではなく、他の病気の場合に備える。
      ・ガン保険には昭和50年から掛けており、入院、手術等に結構の費用が出る。
      ・しかし他の病気の場合は保険がない。(昨年生命保険の加入期間が終了し、継続すればかなりの保険金額になるため小額の死亡保険だけに変更した。)だから、入院、手術等の費用が出ないため、急遽アリコの保険に加入手続きをした。
      ・保険が有効になるのは、4か月先になるというので、精密検査はそれ以降にすることにした。その間、タバコは吸い続けた。
      B 保険が有効になってから、行きつけの医者で、改めてレントゲン撮影をした。その結果、医師から「撮影した結果、どこにも影は見当たらないし、どうもないよ。」と言われた。「先生、そう言えば、10年くらい前にも同様のことがあり医者に行きレントゲンを撮りましたが、影は見当たらず、「異常無し」とされました。」
      「それでも一度、大きな病院でCTを撮りますか?」と言われ、「一度やりますか」と言って紹介状をもらい、成人病センターで受診した。
      この日から、遂に40数年間吸い続けてきたタバコを止めた。
      CT検査の日、結構、たくさんの人が撮影を待っていた。会話を聞いていると、既にガンを告白された人の会話や、奥さんが付き添いされて「昔から何度も止めなさいと言ったのに、、」と言われながらCT撮影に入る人がいたり、少し不安になった。撮影が終了し、受付にて撮影したファイルの入ったCDをもらい、その足で行きつけの医者に持参した。「肺気腫だね」と言いながら、過日、先生自身が撮影されたレントゲン結果も見られ、「影は見えないけどな、、。」と言われていた。その後、肺活量を調べるため、改めて検査日を指定された。肺活量は、年令に比べ平均以上との結果で、当面 特に何もすることもないようだ。
            
      C 「タバコを吸いたい。ああ〜〜っ。タバコを吸って煙を吐き出している人が羨ましい。」そんな日々が続き、お菓子を食べ続けるようになった。体重を62kg前後で、40年間維持してきたのに、65kgを超えるようになった。そこでお菓子を止め、夕食も控えるようにし、元に戻す。タバコは、吸い殻をチュチュと吸い、タバコ味だけを楽しむことで我慢をしていま〜す。
       
       
  •  5月 2日(日) (小学校の同窓会に)
    小学校4年生までいた川上小学校の同窓会に出席した。(名称は川上中学校の同窓会であるが、特別会員として参加)
    3年前、還暦の集いがあり、出席者全員の「赤いちゃんちゃんこ」を自作で準備(下関市でテーラーを経営)してくれたのが、この同窓会の永久幹事のS君だ。彼なしでは同窓会は、うまく運営できないだろう。いつもながら、欠席する人、全員に電話をして近況を確認し、皆さんに報告するという、念の入った同窓会です。本当にありがたいことで、とても感謝しています。
    3年前まで、「3年ごとに実施する」計画だった、今回から「2年ごとに実施する」ことになった。これだけは、いつまでも参加します。
    参加者と話をしていると、当時小学校の教頭が父親で、「95才になるが健在で動き回っている」と話すと、「会いたい」との話になり来てもらった。
    父親と並ばされて、「お前の方が歳に見えるぞ」と言われてしまいました。その後、父親は個別に友人と話をしていた。
    「両親の思い出を話してもらった」と、ある男友達が涙を流しながら喜んでいた。 「お姉さんのゆき子さんは元気ですか」と聞かれ感動していた人もいた。
    開演12時、小生の終了時間20時で、それでも歩いて帰宅し、二日酔いもなかった。楽しい1日でした。
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  •  5月 1日(土) (高校の同級生と)
    萩市の北東方向の山の上に紫福(「しぶき」と読みます)という集落があります。高校の同級生で、小生の結婚式の司会をしてくれたO君から電話があった。
    20年以上出会っていなっかったかな。兄弟で、いつもは誰も住んでいない実家周辺の草刈りを始めとした整備のため東京から帰省していた。
    40年以上も前だったか。彼に連絡することがあり、葉書を出した。住所を書くのに、「阿武郡福栄村紫福」の次が分からず、「阿武郡福栄村紫福山の奥」として投函したことがあった。それ以来彼には、「そんな山奥ではない」と言われ続けている。
    もう一人、同じ集落の友にも出会った。I君だ。昨年たまたまであったが、NHKニュースを見ていると、国内で開催される随分大きいイベントの主催者側事務局長としてインタビューに応えていた。彼も、よく帰省しているようだ。
    久しぶりの再会であったが、このような出会いは、やはり一杯やりながらが最高だと痛感した。
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  •  4月29日(木) (姉御さんを訪ねて)
    昭和45年、某会社に入社した時、約1,500人の従業員が働いていた工場の人事担当で配属された。当時、男子寮は約100人で、女子寮には900人を超える方が寄宿されていた。その女子寮をまとめておられたのが自治会長で、益田市出身のKさん(小生より3才?上かな)でした。
    この人に「○○君!!」と呼ばれると、いつも小生に「ハイ!!」と返事をさせるような気にさせる不思議な方だった。姉御という感じでした。
    今は郷里の益田市に住んでおられ、帰省の都度夫婦で立ち寄っている。本当に何も気にせず会話の出来る素敵な最高の姉御さんです。    
     
  •  4月28日(水) (帰省中、山の中でパンク)
    昨日、美山町までの山中で、「こごみ」を大量に収穫した後、乗車するとすぐにパンクした。その前日の強風で、道路上に多くの杉の小枝があったが、それらを踏みながら走行したためだろう。即、代替えのタイヤと交換し、石田家でタケノコを収穫して鳥取で宿泊した。
    鳥取での宿泊は、昭和55年以来だ。昭和50年頃だったか、駅前辺りが再開発され始めた時に、ある新築のビル地下に鮮魚店が数軒、並んで営業を始めた。よく購入しては持ち帰り、三枚卸しをしてお刺身を食べていた。
    そのマーケットが「太平マーケット」で、探してみたが何処にもなかった。少々寂しい思いのした鳥取の宿泊でした。
  •  4月23日(金) (「こごみ」をあげました)
    4月初旬の「こごみ」は、霜などにより、出かけた芽がダメになった所が多いようです(野洲川沿い等)。
    先週、同僚に「こごみ」を差し上げました。
    「味噌和えがおいしかった。」と、差し上げた物の感想を言われたので、またあげようと思います。
    食べ物を差し上げた後に、お味の連絡があった方には、いつも何度もあげています。
    美山の桜が先週散りましたので、「こごみ」はこれからです。
  •  3月 3日(水) (吉永小百合さんは、昔と同じ目を持ち続けています)
    テレビで、映画「おとうと」のPR画像をたびたび見ます。吉永小百合さんの目を見ていると、昔、二週間に一度、2mくらいの所から見ていた頃と同じですね。
    昭和41年に大学に入ると、体育としてバトミントンを履修した。(前期は昼の授業)
    ところが、しばらくすると、第二(夜間)文学部の吉永小百合さんが、体育でバトミントンを履修していると聞き、「同じバトミントンをするなら、全学部共通で体育を履修するので、彼女と同じ曜日の、同じ時間で申し込みをする」と決め、後期の抽選に臨んだのです。
    「しかし、天は簡単には恵みを与えてくれない」。見事抽選漏れでしたが、その前後の時間で履修できることになった。
    後期は、彼女がバトミントンしている姿を、体育館の2階から見て、終われば文学部の食堂に行き、テーブルを隔てた所から、そ〜っと眺めていました。
    学生たちの間では、彼女を一般の学生として扱うよう、話しかけない近寄らないという不文律があったのですよ。だから私も、「見るだけ」でした。目は清らかだったと、今も当時のことが鮮明に瞼に浮かぶ「おじさん」です。

  •  1月11日(月) (年賀状の意義は何だろう?)
    今年も年賀状の仕分け?(この仕分け言葉は、日常生活の中でも使われるようになりましたね)を行い、また数人を名簿から消しました。
    パソコンの普及により、宛名も本文も全て印字され、差出人の自筆による一言もないケースが増えました。
    200枚購入した年賀状ですが、20数枚残りました。
    親族や特に親しかった人を除いて、自筆の一言が記述されていない年賀状は、『心が、こもっていない交信は止めましょう』と翌年の年賀状に書いて、それ以降は出さないことにしています。
    というのも、ある故人が、病気入院中に子供さんに年賀状作成を頼み、本人は亡くなってからも年賀状が来たことがありました。データの消し忘れでしょう。
    だから、自筆の一言がないものは、チト嫌なんです。

  •  1月 1日(金) (新年を向かえて)
    28日に萩に帰省し、父親、ワイフとともに、新年を迎えた。父は昔から、「新年は、仕事があれば男性が色々して、女性にはさせない日だ」とよく言っていた。
    必ず、所定の時間に、一同に会して、昆布茶(昆布、梅を入れる)を飲み、お神酒も少しいただく慣わしにしている。
    「昨年末に、教え子(享年82才)の葬儀に参列した。最初に教えた子だったが、一クラス60人いたが、同級生の参列者はなかった。」とポツリと話した。
    ここ数年、教え子の葬儀に、よく行っている元気な父親が、昔を偲んで話しをしていた。

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