管理者の独り言

小さな約束を守る人と付き合いたい 「メールします」「また電話します」「連絡します」と言われると、それは約束事です その一言が守れない人の多いこと  よく野菜をあげます その時にお礼を言われ 更に食べた後に味を言う人、また差し上げています 言われると嬉しいものです  味や感想等 何もおっしゃらないと「差し上げて迷惑だったかな」と思ってしまいます(数年前、いつも野菜をあげ感想を言われていた人に、時期が遅いので花が咲いていますとお断りして、好きだと言われた茗荷をたくさんあげました。いつも何か感想を言われるのに何も言われなかった。しばらくして、別件で電話をした時に、「茗荷はどうでした?」と話すと、奥様が「半分以上花が咲いていたので、近所にもあげることができなかった」と言われました。この一件から、野菜をあげることを止めました。)

  • ◎山口県萩市の出身の私が、何故石田家の管理者?
    縁あって石田家の長女と一緒になりましたが、その両親は早く他界しました。弟がいますが、他の地に家を保有し、居住する人もいなくなったため、2018年4月までの25年間、管理者が所有者に変わって対応してきました。

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  • 2021年 5月12日(水) (父が倒れ意識不明で、延命措置を講じないことにしていたので、葬儀に備えるも奇跡の復帰を。まさかの時の判断を間違えれば、大変なことになっていた、、、)令和3年1月5日に、父と面会し、どうにか一言の会話が今回も出来、安心して翌日守山に帰った。
    1月9日の朝、父を預けている施設を経営するK医師から電話があり、「救急で市民病院に搬送します。」と連絡があった。
    そして、「命の危険があり、至急帰省して下さい。昨日、自らベッドの横にある簡易トイレに行こうとされ、ベッドから落ち、左股関節、恥骨の骨折があり、誤嚥性肺炎と意識がない状態です。」との話があった。
    詳しくは次のようなことだった。8日の19時ごろ、夕食後ベッドに着いた。その後、ベッドの下に設置した電子踏みマットが感知したため、急いで部屋に職員が行くと、倒れていたようだ。
    自分自身で立つことが出来ないのに、ベッドの横にある簡易トイレに行こうとして、ベッドから降りようとして失敗したようで、足が痛い等と言っていたが、元の様にベッドに戻された。                                   
    22時過ぎに嘔吐したようで、綺麗に掃除などをして寝かせた。(過去、4回、誤嚥性肺炎で救急入院しているが、この嘔吐が誤嚥性肺炎なのだ。)
    翌9日7時前に、K先生に診察してもらったが、左足の付け根の骨折、恥骨骨折もあり、意識が次第に無くなりつつあり、酸素吸入を増加させて対応したが、救急で萩市民病院に搬送された。
    午後、市民病院のT医師から私に電話があり、「重症で、命の危険があるので、帰省して下さい」と言われた。
    山陽道の通行止めや積雪などで、当日も10日も帰れず、スタッドレスタイヤではあるが、チェーン携帯で11日に帰省した。
    高速道路は雪も無くなり快調だったが、萩市に行く手前の雲雀峠は雪で凍り付いて、何度か危険な状態に出会った。
    午後、T医師と出会った。「誤嚥性肺炎があり、一時はどうなるかと大変心配したが、今は酸素量も少なくて済むようになり、熱も37℃未満になった。誤嚥性肺炎は落ち着いてきた。」
    整形外科の医師より、「左足大腿骨の骨折は、手術となれば命の危険性が高まるため、避けた方がいい」と言われ、それに従うことにした。                                   
    「左足には、体重をかけることは出来なくなる。意識が戻らないが、このまま意識が戻らなければ、食事を口から入れることが出来なくなるため、胃ろう処置等、延命処置をしなければならない。
    お父さんがおられるK医院付属の有料老人ホームには、胃ろうによる医療行為をされない。
    それと、お父さんは、過去、何度か意識不明状態で萩市民病院に入院をされ、その時に「危険な状態があった場合には延命治療はしない」と言う考えを、息子さんがお持ちだと記録されている。
    延命措置を講じなくて退院となれば、その時、栄養補給の点滴を止め、お父さんとお別れにされることになりますね。」と言われた。
    私も「そうせざるを得ない」と判断した。一、二週間後かも知れない。これは決めていたことなので即座に応えた。
    葬儀は、コロナ感染の恐れもあり、数名だけの親族だけで行うことも決めた。
    それを、施設にも話さなければならないので、車で移動した。施設の管理者のK.A.さんに話をすると、休日だったが、K医師に連絡され、すぐ見えた。
    K先生は、「退院された場合には、どんな形にせよ、必ずK医院に戻して下さい。私が色々考えますから。お父さんは、萩市の宝ですよ。私に託して下さい。お願いします。」と強い口調で懇願され、その強い要請で、自然と口から「先生に任せます」と言った。                                   
    K医師から、「口から食事が出来ない状態であり、鎖骨の下に静脈から栄養が摂取できるよう、ポートを作りたい。体内に静脈に通じるチューブ管を埋め込み、液体の栄養素を注ぐ方法を取りたい。」と言われた。
    しかし、この方法は、延命措置には違いないので返事を保留した。
    11日、市民病院から「タオルケットを2枚持参して下さい」と連絡があり持参した。
    持参すると看護師さんが病室に持って行かれ帰って来られた。
    「部屋に入ると、お父さんが私の方に頭を向けられました。意識が戻ったと思います。」と言われ、急に嬉しさが込みあげてきた。
    12日、萩市民病院のT医師から電話があった。「K先生から、ポートを作ってもらいたいと言われたが、延命措置をされるのですか?意識がどうなるか、数日様子を見ましょう。ポート作製手術の延命措置をするか、しないかは、それからにされたらいかがですか?」と言われた。
    その後、姉と相談。「延命措置はしないようにと父は言っていたが、K医師の言われる延命措置をしたとしても、5年、10年と延命することはないだろうし、しばらくのことであり、私達は生きている姿を見ることが出来るので、そのようにしよう」と決めた。
    口から食事を入れることが出来るように願うだけが今の心境だ。
    13日、意識が次第に戻りつつあるという話を聞き、延命措置を行おうと決めた。                                   
    「父を見送らざるを得ない」との判断から一転して、今後も生きるための処置をする。これからも、生きた父と面会出きる。
    間違った判断で、父を早期に、死に追いやることになったかも知れなかった。判断するとは、どういうことなんだと思いました。                                   
    父には、コロナ感染予防により、面会が極端に少なくなり、人との会話そのものが少なくなったためなのか、昨年12月頃からは、痴呆が出てきていた。
    その予防として従来から行って来た、昔の想い出の写真を拡大して見させ、映っている人の記憶を思い出させることや、
    私が記述した大きい字の読み物を見させること等を行ってきていた。
    今回、昭和25年当時の佐々並村で撮影した家族写真や、
    山口大学のHPにあった、父が在学していた山口師範学校の写真などをパソコンに取り込み、それを拡大して見せて、記憶を呼び起こすようにした。
    それらを病院に届け、「時々見せて下さい。」と頼んだ。
    目で過去を思い出させ、記憶が少しでも戻ればとの思いだった。
    この夜、病院から、意識が戻りつつあるので、個室から四人部屋に変更したと連絡があった。
    自力で口から食べ物が入るかどうかのテストをされたが、喉を通す行為が見られず、再度様子見をすることになった。                                   
    14日夕刻、萩市民病院のT医師から電話があった。「口に何かを入れると、自然とゴックンと飲み込むようになるのだが、その兆候が全くない。もう少し様子見をしましょう。
    鎖骨下のポートを作る手術をしましょう。」と言われた。その後、T医師から電話があり、「整形外科の医師は、お父さんのポート手術は、年令的なことや体力的なこともあり、萩市民病院としては、「手術は困難」と判断することになりました。」と言われた。
    今のところは、意識が十分には無い状態で、寝たきりになり、ただ生きている状態となるようだ。
    1月19日退院となった。病室からストレッチャーに乗せられた父が出てきた。看護師さんが、「息子さんですよ」と、父の耳元で言われると、私と目があった。私を認識したようだった。
    その時、父の右目から涙がこぼれ、ホッとした。                                   
    施設に帰ってからも、点滴が続けられた。
    1月20日昼前にK医師から電話があった。「午前中に、T病院の外科医師に往診願い、お父さんの診察をされ、手術をするとの判断をされました。
    手術について、事前に息子さんに色々と確認してもらいたいことがあるため、T病院のKI医師と面談して下さい。」と言われた。
    KI医師との話し合いは、手術に関する生命の危険性についての、家族の了承と、誓約書への署名であった。それを了解し、捺印をした。
    1月21日、入院するため移送されることになった。何故かわからないが、救急車で移送するとのことだった。
    救急ではなく、単に、移送だけなのに消防署の救急車が来たのには、理解できなかった。
    ストレッチャーに乗せられ父が施設から運ばれて来た。
    救急車に乗せられる時、顔を起こしながら、救急隊員に何かを話そうと口を開けているが、声になっていなかった。
    倒れてから低酸素状態がしばらく続いたためのようだ。でもとても元気そうで、安心した。

    T病院へ搬送される父が消防隊員に、声にならない呼びかけをする

                                      
    萩市大井の施設からT病院までは、12kmあり、半分は海の傍を走ります。
    その途中、左はコンクリートで山を覆う崖、右は海。そうした中に、私の前方を行く救急車が急に低速でセンターライン上を走り始めた。よく見ると、子猫が歩いていた。
    思ったのは、海の淵に捨て猫になったが、階段を這い上がり、道路上に出たのだろう。
    通り過ぎる時、このままでは、轢かれてしまうのではないかと心配した。(この猫の件は、悲しいけれど、後日、雑感で紹介します。)
    1月22日、手術は3時間を要して成功した。その後、手術後の経過観察と、縫合箇所の完治を待って、2月2日に退院となった。この日は、私達の結婚記念日でした。
    退院で移送する車に乗る時、「浩か〜〜」と話しかけた。嬉しかった。
    外温は少し低く、病院から出る時には、「さむ〜〜」と言っていた。

    手術退院時、外気に触れ、「さむ〜〜っ」

    手術退院後、施設にてK先生が、ご自分を指して、「この人は誰ですか?」。父が「先生」と応えた


    この年で、これだけの回復力に、ただただ感心と感動を覚えるだけだった。
    その後も順調に回復をし、2月6日面会した時には、ほんの少しだけですが、会話もできるようになりました。                                   
    安心、安心。朝夕にはゼリー、昼は茶碗蒸しを食べながら、ポートを使用して栄養剤も静脈から補給し、1日、1,000カロリー弱を摂取しているようだ。面会の日から、昼だけですが、重湯も食べ始めています。
    一旦滋賀県に帰りますが、がんばって、また会話をして欲しい。
    3月になり、食べる量も次第に増えているようだ。笑顔も出るようになり、元気だと、電話で聞いた。
    私自身の事情もあり、その処置が終われば、また帰りますよ。がんばって。
    私が動けない状態の1か月、姉に「用事があって帰れない」と告げて帰省してもらった。
    この間、父が、ポートも使用せずに、従来と同様、口から食事をし始めたのです。
    またもや、奇跡です。信じられない嬉しさです。                                   
    そして、5月12日、遂に106才の誕生日を迎えました。
    今日は父の誕生日で、特別に面会をお願いして行って来た。
    二階通路でケーキを並べていると、食堂から車椅子で連れて来られ、2m位向こうで、私を認識し、握手をすると涙ぐんでいた。
    早速、小さなケーキの上に、イチゴとメロンを小刻みにしてもらった物を乗せてもらったが、スプーンで、クリームと共に食べさせると、美味しそうに食べていた。
    3〜4口食べさせて、ケーキと共に記念写真を撮るが、ケーキの方に目が行っていた父。
    食べる時以外は、この時間帯は年寄りにとっては眠くなるもので、目を閉じてしまう。姉や家内に電話をして話しをさせたが、「頭が混乱している」と言っていた。
    いつものように、父が私に、「あんたには本当に世話になった。幸せだ。」と、遺言の様に何度も喋っていた。
    そして、「自分の生命力には驚く」と言った。これには驚いた。今回は、帰るまでに、また面会するつもりだ。                                     

    父への伝言とケーキ

                                        

    イチゴとメロンを小刻みにした物と生クリームが進む

                                        

    記念写真よりケーキ

                                      
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  • 2021年 3月19(金) (父が酸素マスクをして、今度は私が、、)2月初め、時々起こる「口内炎」があり、口に違和感を感じたので、傷らしき部分に、冷蔵庫で常備している「口内炎」の薬を付けました。いつも薬をつけると、1週間程度で治るが、1週間まだ治らず、口の中に手を入れて見た。、
    いつもは、歯茎なのだが、今回は舌の裏側だった。
    少しだけだが、小さいイボのようだった。
    その時に、「舌癌ではないだろうか」と思った。と言うのも、昭和41年、大学入学以来の友で、数年前まで付き合いをしてきた浦君が、舌癌になった時の様子を聞いていたことが脳裏をかすめた。
    毎月萩の父との面会で萩に帰る前、月1回、低度の高血圧で通院している医院に行った。
    診察した医者は、「1週間後にも治らなければ、大きい病院で精密検査をしてもらいます」と言った。
    その時に、直観で「舌癌」を確信した。
    舌癌になったとしても、早期ならば手術で数年は生きれる。舌癌は転移し易いと言われており、友人も数年で「頸部」、その後「肺」にも転移し亡くなった。
    その間、5〜6年だった。「彼と同じような状態ならば、しばらくは生きることが出来るので、今のうちに、やり残したことをするぞ」と思った。自分には、「悲壮感もなく、ただ、最後をキチンと思い切り生き抜くぞ」と決意した。                                   
    翌日、萩に向かい、2週間は父との面会をするつもりでいた。1週間経過しても治らず、「やはり精密検査を受けよう」と思い、滋賀県に帰った。
    滋賀県立総合病院でCTやガン細胞を発見する検査などを受け、担当医から「悪性です」と言われた。思った通りだった。
    ワイフに告げた時、かなり動揺していたが、彼女は言葉には出さなかった。
    3人の子供には、同時に話をするため、次男、三男を呼んで話をし、横浜にいる長男には、電話で伝えた。
    「自分は、どうもないが、お母さんのフォローをしっかりするように」と告げ、3月19日に入院して手術することにした。
    癌細胞の大きさは、舌の2cm程度だったが、余分に切除してもらうため、3.5cmの切除をしてもらうことにした。
    「父も先は長くないと思うけれど、手術だけは成功して、父の後でなければ、逝くことは出来ない。」と、固く心に念じて、手術に臨むことにした。
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  • 2020年 9月17日(木) (管理者の父:105才の敬老の日に、萩市の最長老であり、市長が表敬訪問、、)
    管理者の父は、今年105才で萩市の最長老となりました。ちなみに、山口県人134万人では、上から4番目で、男性では2番目だそうです。
    9月17日、市長が表敬訪問するとの話がありました。コロナウィルス騒ぎが無ければ自宅で迎え入れるつもりでしたが、有料老人ホームでは、入所者の外出は禁止されているため、ホームで訪問を受けることになりました。
    マスコミ関係者にも連絡がされ、毎日新聞、山口新聞、地元ケーブルテレビ等に記者が見えていました。
    市長との話では、市長の質問は、人の言葉が即理解できると思っているのか、スローな話し方ではないので、大半は、私が横にいてゆっくり聞き伝えました。
    父が理解すると、ゆっくりではありますが、応答していました。新聞社等からも個別インタビューがあり、40分程度、応対しました。
    翌朝の新聞を見ると、山口新聞の写真が、とても穏やかで、感心しました。
    おめでとう。
  • 山口新聞の顔写真が一番

    市長の言葉を、ゆっくり父に伝える私

    市長の言葉を、ゆっくり父に伝える私

       
       
  • 2019年12月21日(土) (管理者の父は、本当によく食べています、、)
    管理者の父は、来年105才になります。
    毎月、萩市に帰省し始めて、6年。
    滋賀県との移動高速道路料金、ガソリン代等、400万円にもなりました。まあ、いいか??
    先日、有料老人ホーム「絆」から、自宅に連れて帰りました。
    大変ですが、抱えてお風呂に入れてあげました。いつものように、「天国だ」とか、「極楽だ」とか言っています。
    その後の食事は、いつも私の手作りの昼食です。今回は、
    豚カツどんぶり
    カブの千枚漬け
    魚出汁の味噌汁
    大根葉のジャコ炒め
    ブリの煮付けの、頭の部分。煮付けは、いつも骨付きがたくさんありますが、私どもは口の中で全て、より分けます。それが当家のルール。
    締めさば
    大根、ブリ、こんにゃくの煮物
    以上が今回の私の手作り食事です。とにかくよく食べますが、有料老人ホームでは、薄味で少量の食事ですので、いつも不満を言っていますが、こうして自宅に連れて帰った日は大満足のようです。
  • 魚の煮付けを口の中に一気に入れます(ピントハズレですみません)

       
       
  • 2019年12月  7日(土) (管理者の父が、自宅にお湯船に浸かり「天国だ」と言う。食事は、魚の頭丸ごとの煮付けを、ガブリつき、、)
    管理者の父は、104才7か月。
    意識も、多少の痴呆がありますが、意外と、正常な会話が出来ます。






  • はぎ時事新聞です

       
       
  • 2019年11月 3日(日) (10月20日、早稲田大学卒業後50年。最後のホームカミングデーで同窓会、、、)
    卒業後15年目から5年毎に、「大学に来ませんか?」と、ホームカミングデーの通知が来ます。
    50年目が最後の通知となります。高齢化社会なので、55年目も通知したらいいのにと思いつつ、クラスの友人に集合場所、時間、昼食宴会出血有無の確認電話を私がしました。
    いつからか、いつの間に私が段取りをする役目になっていま〜〜す。高校の関西地区も私なんですよね。
    数年ぶりにJR線に乗り、京都駅経由で行きました。
    二十数名いたクラスの人も、亡くなった方が5人になり、集合する人は10名となりました。
    校内で学生が販売する紙コップ酒を6杯飲んだかな?気分は最高!!ッ。
    大隈銅像の前で集合写真を撮りました。何故か直前に話をした東広島市出身の女学生が映っていま〜〜す。誰かが勝手に招き入れたようです。私かな??                         
    昼食会でもよく飲みました。二次会のカラオケの店でも、飲むわ、飲むわ。たらふく飲み続けたのに、酔いが来ない。
    新宿ワシントンホテルにも、新宿駅から歩いて20分くらだったか、まともに行けました。最高の1日を過ごしました。最高の友に乾杯!!
  • 日本酒を立ち飲みした後の記念撮影

    翌朝ホテルの窓から都庁を撮影。8時なのに人がいない、、。そうだ、皆、地下通路を歩いているのだ。

       
       
  • 2019年 9月26日(木) (管理者の父が、敬老で取材を受け新聞に、、、)
    管理者の父が104才4か月を経過し、地方紙の「はぎ時事新聞」の取材を受け、掲載されました。
    その新聞が滋賀県の自宅に送られてきましたので、そのコピーを親族等に送りました。
    孫が来て、担任の先生に見せると言うので、持参したらしい。先生は、「大変喜ばしいことだから、掲示しましょう。」と言って、教室の掲示板に貼られたようだ。それを孫が喜んで言って来たので、こちらも嬉しくなりました。
  • はぎ時事新聞です

       
       
  • 2019年 5月25日(土) (昭和40年代は、ギターさえあれば人の輪がありました、、、)
    昭和40年代の前半を東京で過ごしました。
    当時は、学生運動が盛んで、通っていた早稲田大学でも、教室が封鎖されたりして、授業が休講になったりしたこともありました。
    そんな騒々しい中でしたが、高校時代からギターを弾き初め(バンドを組み停学処分)、学生生活をしていた荻窪の下宿で、隣部屋の亡き鈴木君と2人で演奏しながらデュエットで、毎日のように青春の曲を歌っていました。
    昭和45年、社会人になり、某大手繊維会社に入社し、営業希望が一転し、当時の人事部長にお願いされて、人事の仕事をすることになりました。
    過日記述しましたが、大きな工場に赴任し、そこではギターが大活躍でした。                                     
    カラオケセットも無い時代ですから、皆が集う時の歌と言えば、「3,4〜〜」と言って歌い始めることばかりでした。
    そこへ私が登場し、毎度のこと、昭和43年入社だった亡き渡辺清史さんと共に、演奏しながら皆で歌う場がやってきたのです。
    工場内では毎週のごとく、何らかの演奏する機会があり、いつも多くの人と歌ってきました。社外からも演奏依頼があったりしました。
    また当時、女子寮生が作った詩に曲を作ってあげたことも、何度となくありました。
    懐かしい、懐かしい、50年前のことでした。
    60才中頃、また新しいギターを買い、一人で爪弾きながら歌っています。最も好きな「小さな日記」です。、、
  • 亡き渡辺清史さんと共に演奏中

       
       
  • 2019年 5月12日(日) (管理者の父が、104才の誕生日を迎えた。でも、、、)
    104才の誕生日を、心から祝福してあげました。
    1月末から入居している有料老人施設では、誕生日を祝い、色紙に写真を入れて、とてもいい贈り物をしていただきました。嬉しいことです。
    昨年の誕生日に、昭和12年から昭和16年までの4年間担任として受け持った教え子さんが、山口市の施設から、甥御さんの車で、お祝いのため駆け付けていただきました(この「管理者」ページに写真があります)。
    ところが、実家のご近所さんで、長年親しくしていただいているYさんから、「あの教え子さんが亡くなられ、先週葬儀も萩市の教会で行われましたよ。」と告げられました。
    大変お世話になった方でした。ご冥福をお祈りいたします。                                     
    父が、昨年末に、昨年度だけで三回目の意識不明に陥り、年末から1月末まで、落ち着くまで萩にいました。
    「今は落ち着きましたが、、」と、教え子さんに父が葉書を出すと、2月、3月と、父のいる有料老人ホームまでお見舞いに来られました。
    九州大学医学部を出られ、最後は大分県の湯布院厚生年金病院長をされた方で、父とは、90年に渡り、「K君」、「先生」と、師弟愛と言いますか、常に、Kさんあって父、父あってKさん。
    そんな二人でしたが、Kさんの訃報に接し、私は悲しみに陥りました。
    父に、訃報を伝えないようにしなければならない。父が、Kさんの死去を知った時の絶望感により、父が、一気にどこかに行ってしまうような思いになりました。
    父には訃報を耳に入れないようにすること。それが今の私の役割だと、、、
  • 昨年の誕生日。左が90才の教え子・Kさん。右が父。

       
       
  • (平成も終わり、ひとつの時代が過ぎようとしています、、、。今回から、管理者の過去を少しだけ伝えていきたいと思います)
    1. ・1972年 そんな筈ではないのに、元来の演劇好きが高じて、最初の赴任地、綾部市にある工場における女子寮900人、男子寮100人弱の演芸会では、女形が大きな笑いを誘い、大変うけるので、よくしました、、、             

      第1部 七夕祭り、新入社員(昭和47年、長崎大学出の営業マンで、工場で実習中)のギターの演奏で、「すみだ川」を自分で歌いながら舞う。何故か、これが好きなの、、、

                

    第2部 七夕祭り、山口県の社員と共に、地元を紹介

      ・1993年 滋賀労働基準協会の四国研修旅行の夜、東レのおっちゃんと、急遽女形寸劇が大好評で、、、

                

                

                

                

    中居さんも、お客様の接待を思わず止めて観劇しているとは、、

                

                

                

      ・1997年 会社の某事業部の営業責任者をしていた時、大阪にて業界団体の忘年会で、急に思い立ち、店の支配人に着物を準備願い、サプライズ、、。この時の歌は、細雪でした、、、

                

      ・1998年 PL花火の日、開催地近くに住む某業界社長の庭で、20万発の花火を見ながら大宴会。アルコールが入って調子に乗ると、このありさまとなってしまう私。奥様、、、トホホ?、、
      飲み過ぎてしまい、近鉄の最終で大阪駅に着いたものの、JR琵琶湖線の最終は出ており、滋賀県に帰ることが出来なかった。
      飲み過ぎだったので眠くなり、大阪駅のタクシー乗り場付近に座り込んでしまった。簡単なリュックを背負いながら、そのまま朝まで寝てしまった。
      意識の中に、「タクシー乗り場の近くなら、人も行き交うので危険ではない」と判断していたのです。
      「えらい!」と誰も言わないので、自分で自分を褒めました。

                

       
       
  • 2019年 4月13日(土) (管理者の父の実家の裏は海で、宮ヶ島(満潮時には砂地も海水になる)に衣毘須(これが珍しい)神社がある絶景です、、、)
    先日父を連れて、父の実家にあるお墓参りをしました。毎月、車椅子を車に積んで、益田市小浜まで行きます。
    実家のすぐ裏が海で、今回は車に乗ったまま、二人で海を見ながら弁当を食べました。
    父が言っていました。「尋常高等小学校の頃、神社の草引き等の清掃をし、松も移植していた」と。
    実家が、この村で、皆に呼び掛けて、個人だけの漁業から、大敷網(おおしきあみ)をしようと発起人となり、村を栄えさせたらしい。その関係なのか、実家のお墓の傍に、大敷網を記念するような碑があります。
    また、実家では、仕出し業や旅館もしていたため、写真の赤線の場所に、岩を掘って天然の生け簀を作り、お客さんに、いつでも活きた魚を提供していたようです。
    今から90数年前の出来事です。
  • いつまでも見とれる絶景(クリック2回で大きい写真に)

       
       
  • 2018年5月12日(土) (管理者の父(103才)の誕生日に、90才の教え子さんがお祝いに見えました)
    103才になった父の誕生日に、昭和12年から昭和16年までの4年間担任として受け持った教え子さんが、駆け付けていただきました。
    お互いに喜び、既に教え子さんからは、萩市の明倫小学校で教師と生徒が向き合う「80年目の授業」をしたいとの話しがあり、東京の同級生(クラスは57名でしたが、存命者の2名だけは確認できています)の日程に合わせて実現する計画です。
  • 前列右が103才の父。その左が90才の教え子さん。

       
       
  • 2017年6月13日(火) (管理者の三男が、萩市の松陰神社で挙式、、、、これで安心で〜〜す)
    管理者の三男が、結婚式を萩市の松下村塾のある松陰神社で挙行しました。
    滋賀県では管理者の自宅の近くで数年前から居住し、子供も満1才となっていますが、挙式開催の時期を逸していました。「管理者の父(102才)に出席して欲しい。」と切望し、萩市での結婚式となりました。
    3人の息子にはそれぞれ子供もいて、この9月で5人の孫に囲まれます。管理者も、これで一安心で〜〜〜す。
  • 松陰神社本殿

       
  • 2017年3月3日、管理者の父が102才を目前に、萩市長の依頼で、「明倫学舎」の竣工式で来賓祝辞(管理者の母校は、明倫小学校(前身は、毛利藩の「明倫館」です。)2017年3月3日、旧明倫小学校を修復し、明倫学舎として新しくされ、その竣工式が、萩市の行事として行われました。
    萩市が、当日の招待者として、国立国会図書館長、県や市等行政関係者等約180名を招待しました。
    昭和11年4月、新卒で明倫尋常小学校に教師として赴任した父にも、招待状が来ました。父は、参加することに承諾しました。            
    2月27日になり、市役所から私に電話があり、「3月3日の竣工式で、お父さんに来賓祝辞を依頼したいので、受けれるかどうか聞いて下さい。」と言われました。
    数日後に竣工式を控えていましたが、父は「仕方ない。やるか。」と言うので、その旨を市に伝えました。
    「さて、何を言おうかな?」等と言いながら、色々と話しをしてくれました。それは、次のようなことでした。
                     
    ・明倫尋常高等小学校は、昭和10年10月に出来た。萩には、一度、益田市戸田小浜からポンポン船で、一度来たことがあるだけだった。            
    ・山口師範(現在の山口大学)の時、教員として採用され、昭和11年3月末に「4月3日に明倫尋常高等小学校に来るよう」に、島根県益田市小浜の実家に通知が来た。            
    ・昭和11年4月3日(今から80年前、21才時)、取り敢えず、明倫に行った。学校が春休みで、教師が何人かおられた。ある先生から、「校長の家に、挨拶に行こう」と言われ、歩いて家に行った。その家は、桂小五郎の誕生の家だった。借家として借りていたのだろうか?学校に戻ると、「篠原君、今日から何処に下宿するようになったのだ?」と言われたが、「学校に来るように言われただけなので、そのようなことは何も決めていません。」と言った。「俺の下宿に取り敢えず来てもらったらいいから。」と言われ、その日から、その下宿の空いた部屋に住み着いた。            
    ・4月8日、新学期を迎え、生徒達と教師としてのスタートを切った。            
    ・時は、日中戦争の最中で、戦時色の強い生活だった。その頃から、生活における節約統制がきつくなり、特に食料を切り詰めるようになり、国民は、「辛抱」を強いられた。            
    ・昭和16年12月8日、毎日のように、7時前に出勤すると、宿直の金子先生が、「篠原君、戦争になったぞ。」と言われ、初めて「開戦」を知った。その日、全校生徒に開戦について校長から訓示があったが、担任として子供達にどのように話しをしたかは忘れてしまった。(以前から、日本の戦争や軍事等について、どのように生徒達に教育していたのかと、何度も聞いてきたが、決して口を開こうとせずに来たので、それを貫いているのだろう。)            
    ・戦争に突き進んで行くと、子供たちの弁当は、「日の丸弁当」となってきた。また、学校代表者が、赤紙で召集された出征兵士を駅で送り、その後は、白木の箱をお迎えに行くことが多くなり、悲しい日々が続きました。            
    ・それでも子供達は明るく元気で、生徒達との絆は、とても深いものがありました。その生徒達も、大半が亡くなりましたが、皆さんとは年賀状のやりとりをし、10年前までは、いつも同窓会を開催してくれました。生徒達が亡くなると、その奥様やお子様達とも年賀状を交換したり、訪問を受けたりしています。ありがたいことです。            
    ・こうした明倫時代では、ある生徒達を4年間も持ち上がりで担任をしたことは忘れることができません。当時の校長から「4年も同じ生徒の担任をしたことは、明倫では前代未聞のことだと言われた。当時学校では、学年が変わると生徒の組の再編成があり、同じ生徒だけで学年が変わる事はなかったけれど、何故か私のこの組は、編制替えが無かった。                  
    ・戦争が激しくなり、私も海軍から、海南島の教師(特務機関として潜入)として赴任するように命令があり待機していて、呉から「伊号潜水艦」で赴任することになっていたが、潜水艦の都合で行けなかった。昭和20年6月には陸軍で召集され、アメリカ軍が鹿児島県の志布志に上陸するとの予想もあり、布陣した。そこでは、上陸が想定される場所で塹壕を掘って隠れ、アメリカ軍が上陸すると、戦車などの車両が通過する時に、爆弾を抱えて車両の下に飛び込んで破壊する使命を帯びていた肉弾特攻?だったが、そのようなことも無しに終戦を迎えた。
         
             
    こうして、竣工式で、昭和11年春から8年間勤務していた頃の学校の思い出を大勢の前で語り、読売新聞、毎日新聞、朝日新聞の各紙にも、父の話しが報道(朝日新聞)されました。
  •            

    102才前の、管理者の父が祝辞

               

    各紙の記事

     
  • 平成27年12月11日(金)12時39分 (吉永小百合さんは、50年前の御顔のままでした)
    たまたまテレビのスイッチを入れると、「徹子の部屋」でした。
    絶対見ない番組ですが、あの吉永小百合さんが出ていましたので、初めてずっと見てしまいました。
    吉永さんのあの顔は、昭和41年当時のお顔と全く同じでした。
    昭和41年に早稲田大学に入り、吉永さんが第二(夜間)文学部に在籍していたことは知っていました。
    ある時、友人が、「吉永小百合が、19時までの時間は、岸記念体育館で体育としてバトミントンをとり、二週間に一度、体育館で見れるようだ。それと同じ時間のバトミントンの時間には、大勢の人が希望するため、その時間の科目に参入するには、かなりの倍率で難しいようだ。」と言っていました。
    当時、自分で取得する授業は、全て抽選でした。
    吉永小百合さんの受講科目と時間を友人から情報を得たので、私は19時10分から(19時までの授業は、数十倍の競争があり)のバトミントン授業にエントリーし、OKとなりました。
    それからは、この体育以外の授業は、代返(教授が出席を取る時に、私はいないのに、私の名前が呼ばれると、友人が「はい」と応えて出席となる)をお願いしていましたが、この体育だけは、いつも出席でした。
    吉永さんが授業を受けている時は、体育館の二階から、その光景を見ていました。また、私の体育授業が休講になったりすると、文学部の食堂に行き、2〜3m先に食事をしておられた吉永さんを、ちらちら見ながら食事をしたものでした。彼女は、いつもスッピンでしたが、とてもきれいな方でした。
    ちなみに申し上げますと、学生を始め、学内にいる人は、「特別な人と扱わず、知らない人は知らない人として」と言う不文律がありましたので、私も話しをすることはありませんんでした。
    今日のテレビで見た吉永さんは、あの当時のままのお顔でした。今日は良かった。
    以上の記述を、HPにアップしようと、12日午前2時に起きてテレビを付けると、6チャンネルABCテレビで、「男はつらいよ」を放映していて、出演者に、吉永さんの名前がありました。こうなれば見なきゃ〜〜。出演の役名が「歌子」で、亡き母と同じでした。
    吉永小百合デーでした。

  • ◎平成27年7月23日  父(百才)と一緒にいると、私(67才)に「お孫さんは、毎月帰省してよく面倒を見て感心するよ。」と言われました
    今月は、平成27年7月11日から同月21日まで、延べ12日間、萩市に帰省しました。その間、何度か、朝自宅に連れて帰り、かき揚げ、刺身等を作り、昼食を食べてもらいました。私以上に食べる父でした。日頃、父をあずけている「椿の郷」で、私の事を「父の孫」と思われていて、どう表現したらいいのか、、、

  • 平成27年5月12日(火) (管理者の父が百才を迎えました)
    大正4年5月12日生まれの父が、百才を迎えました。
    昨年から一人で立ち上がることが難かしかったのですが、自分一人で、毎日毎日、歩行訓練を重ね、横になっていても、つかまる物があれば、一人で立ち上がるようになりました。
    感心しております。
  •                     

    百才の、管理者の父

                          

    乾杯の前に、、

         

  • ◎萩市の出身って。「ほんときゃー(萩弁で「本当ですか」)
    小学校は、明倫館のある明倫小学校でした。この木造の学校は教員であった父親が、昭和11年に教員として最初に赴任した学校です。
    今も木造の校舎を使用しています。この学校では、当時、道徳の時間は「松陰読本」の時間でした。「松陰読本」によって吉田松陰について勉強したものです。
    *「かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ 大和魂」
    *「親思ふ こころにまさる 親ごころ 今日のおとずれ 何ときくらむ」(自分がどれだけ親のことを思っていても、親が私を思う気持ちは、それよりはるかに大きいのです…。今日、このように刑死となる身を、親はどう思うでしょうか、、、。)
    この「松陰読本」を、今も使用していることを明倫小学校の先生に聞き、驚きと共に懐かしさも覚えた。

    明倫小学校正門 明倫小学校本館(在学中は1部(1部から4部まで10組あり) 小生の1部6年2組は2階西端の教室でした

    1. 当時は借家住まいで、昭和40年代は「青木周蔵」宅(国の重要文化財)を借用していた。
      小生の結婚式に仲人が、「文化財に住んでいる者同士の結婚」と表現した。
      この家と同じ筋には、桂小五郎(後に「木戸孝允」に改名)があり、
      また、違う筋には「高杉晋作」の生家もある。

       

  • 高校は萩高校で、元 河村官房長官が先輩にあたる。
    ちなみに小生は、河村氏と同じ村(現在は萩市になったが、昔は「三見村」)で生を受けた。
  • 学生時代は東京で過す。早稲田大学受験の申請(当時、大学受験の時には、担任に受験申し込み表を提出をして担任の指導を仰ぐことになっていた。)をした高校3年生の時、担任のS先生から、
    「君がこの大学を合格するということは、晴天の日に雨が降るようなものだ」と言われてしまった。
    でも何故か、花(ではなく、鬼でした)の機動隊に囲まれて受験をしたお蔭(「そうなんだろうな」と友人に言われたことがある)なのだろうか、宝くじにでも当たったようなものなのだろうか、大学の門をくぐることが出来た。
    試験当日、機動隊と共に大学入口にいた人で、テレビで見た顔があった。その人は、東京オリンピックの最終聖火ランナーだったが、いつまでも鮮明に覚えています。

  • ◎この学校では友がたくさん出来た。
     
      吉永小百合さんに憧れて,彼女が所属していたという理由だけで馬術部に入部したU君。
      徹夜マージャンをしていても、まだ暗い早朝には彼の代わりの者が牌を握り始め、彼自身は厩舎や馬の世話に行ったっけ。
      今も時折出会うバンカラおじさんだけど、もう約6年間ガンと闘い続けている。
      舌ガンから肩、肺へ転移し、その都度どうにか治療をしてきた。
      最近、遂に「医者も見離した」と連絡してきたが、私の彼に返す言葉は、いつも「打ち勝つんだ  ! 」しかなかった。
      「早く石田家に行き、ゆっくり過したい。
      もう時間がない」と言っている。今春、大学のクラスの同窓会を計画します。(記述:2009年1月27日)


     

  • ◎元NHKの「その時歴史は動いた」を担当されていた松平定知(ウィキペディアでは、入局(入社)を1967年としていますが、小生の一級上で、1969年が正しいものなり)さんと同じゼミだった。
    (松平さんと私は、ゼミ(マスコミ関係)コンパでは徳川家長州とで、いつも漫談(明治維新を期に立場が逆転)でした。)。
        
      ・小生 :「松平さん」
      ・松平さん:「○○君、殿(今この言葉を子どもが聞くと、志村かな?)と言って欲しいものだが、。
      ・小生 :「ははーーっ 殿」
      ・松平さん:「うーん よーしゃ」
      (明治維新後を想定した会話では)
      ・小生 :「松平君」
      ・松平さん:「ははーっ 官軍様」
      {こんなやり取りでした。}

    1年上の彼はNHKへ入社された。小生は希望であったマスコミ関係の試験に全て第一次試験で失格でした。
    競争率は最も高い会社で90倍近かったと聞いたけれど、競争に負け、止む無く民間企業へ就職した。

  •  

  • 「NHKラジオ深夜便」をカセットに録音して6年(カセットからパソコンに取り込み、1曲ごと再保存しCD化)
        
      ・滋賀県のバームクーヘンで有名なお菓子屋さんの人と、日本の教育について思いが一緒で意気投合しました。「日本の教育の荒廃は、古き郷愁を覚える場所がない。そこを思いだすような唄がない。皆でそれを歌うことが日常生活の中にない。」
      ・カセットから1曲ごと保存して、大正時代、昭和の唄を取り込みました。1,600曲になりました。
      ・これを老人ホームにおられる人の年齢に併せた音楽(時代背景、物価、事件等をアナウンサーが語ることもあり)を流してもらった。何も喋らない方が、何かを思い出したように「そうだ」と言ったりすることがあると聞いた。これからも多くの施設や、必要なら個人にもCDをあげよう。これも人に喜んでもうらうことになる。野菜をあげて喜んでいただくのと一緒である。
      *曲目、年代、歌手の一覧表をご覧下さい。
  •           
           「曲名・歌手・年代」(戦前から昭和35年まで)表(CD表示用)を見る方は、ここをクリックして下さい
               
    善意の協力金(修復費用として預金):49,167円
    (公開条件を巡り南丹市と話し合いが着かず、公開を中止していた2009年4月29日〜同年11月8日まで、地元の方が自発的に公開を買って出られました)ありがとうございました。
    協力金依頼、協力金等の管理責任者は、美山町樫原の古民家を購入され、京都市内と美山町樫原で居住されている中川さんです。
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