2024年
2024年 5月 5日(日)(悲しい話をされた楊井さん、、、)
4月10日過ぎに帰った時、楊井さんが実家の塀越しに声を掛けられに来られた。
第一声で、「以前話しをしていた昔の彼女が、先日すい臓がんで亡くなったんだよ。女房が亡くなり、彼女も亡くなった。」と、しょんぼりと言われた。
私は、「そうですか。残念でしたね。」としか言葉が出なかった。
奥さんを亡くされてからは、広い屋敷に一人で暮らしておられる。
私が作った漬物や野菜を持参すると、よく電話で話をしておられた。話し相手は、携帯での神奈川県伊勢原市だったかに住んでおられる昔の彼女だった。
6年前だったか、「この前、50年ぶりに昔の彼女に会って来たよ。と言われた。彼女は79才、楊井さんは81才だった。
お二人共、とてもとても元気な状態でお出会いされたことを熱々しく話され、赤面する程だった。
「それは良かったですね。」と褒めてあげました。「いや〜〜、久しぶりだと、なにもかも元気になるなあ〜〜」と満足げに言われた。
毎日電話をされ、彼女のご主人が亡くなられてからは、電話の頻度も多くなったと言われていた。
彼女はジャムが好きで、ご自分で作られたジャムも毎年送られ、彼女が好きだと言われた物は、色々と送っておられたようだ。
昨年、「彼女が、すい臓がんになった」と言われた。電話で励ましをされていたようだが、遂に生を全うされてしまったのだった。
楽しみの話し相手を亡くされ、元気さが更に無くなるのを心配しています。
出来れば萩に長くいて、話し相手になれたらいいと思いますが、それもなかなかです。
「人間は、異性の話し相手が無くなると本当に寂しくなり、一挙に老化の道を辿る」と、言われていますが、楊井さんにも、それが如実に現れているように感じられる。
年令を重ねるにつれて、日常していたことも、「まあ、いいか」と思って次第にしなくなることがあるが、これが老化を一層高めると言われる。
年賀状を止める。メールを止める。家事でも、いつもしていたことを、ついつい止めてしまう。
これらは、すべて老化促進の元だ。
自宅から800坪の楊井邸を見る。手前は楊井さんが自治会に提供されている広場と公会堂。夏は、朝6時半からNHKラジオでラジオ体操する子供達。
2024年 5月 3日(金)(あの楊井さんは、すごいの、、、)
奥さんは、とても綺麗な人だったが、10年近く前にパーキンソン病で亡くされた。
楊井さんは、何でも興味を示し、多くの知識のある人で、辞書の様な人だと思う。
楊井さんは、何でも興味を示され、何でだろうと思うことがあれば、近場であれば現地に赴かれ、その全てを調べてしまう人だ。
800坪の広い自宅敷地では、沢山の野イチゴ、ビワ、柿等が出来る。ビワは全て自分で袋をかけられる。
それぞれ出来たものは味付けされ、真空瓶詰をされる。
真空瓶詰をしたいと思われた時、市内のJAの甘夏ジュース作りの工場で、真空瓶詰の手ほどきを勉強され、自宅で多くの瓶詰をされている。
私も、畑作りや漬物を差し上げているからか、沢山いただきました。
味をつけるので見た目は悪いのですが、とても美味しいのです。
ありがとうございます。
瓶に真空パックされた野イチゴジャム、ビワ
2024年 5月 1日(水)(萩の実家の向いのおじさんは待っているだろうな、、、)
萩市の実家の向いに、おじさんがいる。
三日前、実家に帰った三男が、自宅に膨大に出来たスナックエンドウを、このおじさんの家に初めて行き差し上げたと連絡が来た。
楊井さんといい、昭和12年2月生まれだ。
そのお父さんは、ご自宅で歯医者をなさっておられた家だ。
大きな家で、敷地は800坪ある。
道路を隔てた手前に、地区に貸し出しされている土地も広い。そこに地元の集会場がある。その手前に我が家がある。
法政大学を出られ、国鉄(今のJR)に入社され中国地方の勤務だったようだ。かなりのお偉方だったようだ。
父が亡くなっても、我が家を覗き込んでは、「昔、父さんはな、、」と言って父とのエピソードを話してくれる。
亡くなった両親の事を話してくれる人は、萩での付き合いがないこともあるが、なにかしら嬉しく感じている。
そのため、数年前から、漬物を漬けた時には、小さな桶に入れて押し石と共に渡すようになった。
楊井さんが3年前に自宅で倒れてからは、足の状態が悪くなり、杖をついての歩行になり、買い物も少し不自由になられた。
そこで私は、楊井さんの敷地内の荒れた場所を開墾して畑を作り、野菜を植えて上げ始めた。
萩に帰ると、自宅と楊井邸と、二カ所の畑の世話をする。
その畑に一昨年、市販のかぼちゃの種を植えると、見事に大きなかぼちゃが30個くらい出きた。
キューリ、長ナス、トマト、万願寺も大量に出来て、「多過ぎて食べきれない」と言われた。
それでも、嬉しそうな顔を見ると、私が嬉しくなり、どうにかしてあげなければと思っています。
楊井さん
2024年 4月26日(金)(遂にウォッシュレットを交換した、、)
自宅を購入して25年が過ぎた。
この間、修繕等は殆ど自力で行ってきた。
築50年になり、襖の動きが悪くなれば、外してカンナで削る。
水道の蛇口の故障時には、100円位のパッキンを買って交換をし、蛇口の錆等による破損時には、インターネットで安く購入して、取り付け交換したりしてきた。
昨年春、長年使ってきたウォシュレットの温水を貯める個所から、水漏れがし始めた。
取り外しして、想定された部分を補修して1年以上使ってきたが、先日から、また漏れ始めた。
今回は、漏れる量も多かったので、9,000円のウォシュレットを購入して自分で取り換えをした。
インターネットで調べてみると、5,6万円は支払いしなければならないようだった。
ワイフは、私のこのような対処は、普通の家庭でもやっていると思っている風がある。
私は、大半の家庭では、業者に頼むだろうと思っているのだが、、、
ウォッシュレット
水漏れをバケツで受け止めていた
2024年 4月 4日(木)(萩の実家のガスを閉鎖した。火は今、、、)
留守宅のガスを閉栓しました。
使用しない月も、基本料金2,000円強徴収されるので止めました。
とは言え、二か月に一度くらいは帰省をしており、炊事に使用します。
そこで、簡易式のガスコンロを使用するようにしましたが、長時間の煮物、焼き物等は、お風呂のおきを利用してコンロで料理します。
お風呂を焚く時に、消し炭も保管しておりマッチ代くらいです。
熱湯は夜間料金でタンクに溜めますが、基本料金が400円程度なのに、わずかでも使用すると、2,000円程度加算されるので全く使用しません。
極力お金のかからない空き家管理です。
萩の台所のコンロ
2024年 3月 1日(金)(今年も年末から畑の野菜をよく食べ尽くしたな、、、)
今年は初めて大根の種を取り、その種で植えてみた。
種を取る野菜は、交雑しないように、距離を置いて育てる。
毎年の「サラダ水菜」、「チマサンチュ」、「高菜」に加え、初めて大根だった。
それらの種で巻いたものは、交雑もなく育った。
大根も大根の芽が吹いたが、その前年の種が残っており、守山だけで700本分になった。
それが、一部は虫に新芽を食べられてしまったが、11月頃から食べ始め、時期をずらして三段階で植えたため、3月に入っても食べることができた。
半数位は、他人に差し上げたが、我が家族だけでも食べることが不可能と思われる量は、全て干し大根にした。
干し大根にすると甘みを増すので、時季外れに差し上げると大変喜ばれます。
育ちの悪い大根も、綺麗な容姿を見せてくれるのもあり、目のやりどころに困る時もある。あるかな?。、、、
どうですか?大ちゃんは立派?
でも恥ずかしいから
人ちゃんもよ。どう?
私も恥ずかしいな
人もそうだけど年を取ると、、
2024年 1月15日(月)(能登の地震で元従業員の実家は?、、、)
地震から2週間が過ぎました。
被災された方々へお見舞い申し上げます。
ニュースやYou tubeでその惨状を見ると、その悲惨さに心痛みます。
震源地が志賀町と報道された時、すぐに浮かんだ元従業員の実家があり、どうなったのか心配になりました。
50年前、工場にいた時ギターを教えていた一人が、「半〇江美子さん」、縫製部門で教婦と言う指導的な役職だった「池〇とし子さん」、穴水町には、「高〇枝さん」、珠洲市では「飯〇幸子さん」、「縁〇良子さん」、他にも輪島市、能登半島の先端の三崎町にも昭和46年入社の人もいた。
地名を見聞きしただけで、50年前の出身地と名前、出身校が出てきました。
心よりお見舞い申し上げます。
和倉温泉で最も大きいホテルの「加賀屋」には思い出もあります。
私が30才の頃、石川県立七尾農業高校を訪問した時ですが、進路指導主事の50才台の先生が、「加賀屋のお風呂に入ろう」と言われ、ついて行ったことがありました。
経営者に教え子がおられ、入館すると、ホテル側が入浴用具を持参され、温泉に入りました。
この先生は、自宅に遊びに来いと言われ、お邪魔したこともありました。
大きなご自宅で、地元の大地主のようでした。
映像が出る度に、当時の事が蘇ります。早く復興が進むことを望んでいます。
当面は義援金をしていますが、仮設住宅が出来ると、東日本大震災の時に何カ所にも、癒しの音楽CDを匿名で送りましたが、またその内、送り、皆さんがお集りの場所で懐かしい昔の歌を流していただき、すこしでも「やすらぎ」になればと思っています。
加賀屋
2024年 1月12日(金)(昨年収穫した玉ねぎを今も使っています、、、)
昨年6月に収穫した玉ねぎを今でも使っています。
玉ねぎは、収穫すると日陰に吊しておきます。
毎年の事ですが、子供3家族と私の家で使う玉ねぎなので、約500個は作ります。
9月頃になると。少しづつ芽が出てしまい、10月に入ると、早期に食べるか、切って天日干しをしてカラカラにして保存するかです。
保存すると、とても甘みが増して、おやつ代わりにボリボリ食べてもいます。
ところが今回の玉ねぎは、多少は腐ってしまったけれど、未だに目も出ず、中身は1〜2本青くなった部分の他は変化はないのです。
有難いことなのだが、初めての事でもあり、異常気象が関連かなと思ったりしています。
不思議な現象です。???、、、
まだこれだけ残っています
中身は大丈夫です
2024年 1月 9日(火)(そうそう、お風呂と言えばガス風呂と焚く風呂との違いが、、、)
冬になり気温が低下すると、我が家のように戸建て住居では、お風呂が外気によってタイルが影響を受けるため、冬は入っていても、次第にお湯が冷めていきます。
お湯を張り、良い加減だと思って入ると、次第にお湯の温度が下がり追い炊きをしなければならない。
ところが萩の実家の風呂は、夜間電力によって熱湯を貯めるタンクのお湯を使うか、風呂釜を木々で焚く方法がある。
夜間電力は安いけど、剪定木や近所の木々の整理をして大量の木があり、いつも焚いています。
約40度近くで残り火がある内に入浴し、次第に温度が上がっていく風呂が最高で〜〜す。
木がたくさんあるので、午前中に1回と夕刻に1回入るけど、寒い時には、15時頃にも入ります。最高だね、、、!
最大の焚き木にするためには、煙突の掃除が欠かせません。
毎年12月には煙突掃除をします。
1976年に建築した家も、長年毎日焚いてきた風呂釜も耐火煉瓦が崩れたりして、数年前に焚口の中を耐火セメントを使い補修したりしてきました。
煙突の掃除は、父が作った針金付きの細い金属製の刷毛を使います。
屋根に上り、針金を入れて、下から上下に動かしながら引っ張ります。
沢山の煤が出ます。
焚き口の中も、箒等を使って煤を出します。
この掃除をした後に風呂を焚くと、風通しがいいのか、火力も強くなります。
この風呂が最高で、亡き父を100才を過ぎても何度か入れましたが、いつも、「極楽じゃ」とか、「天国に来たみたい」等と言っていたのを思い出します。
萩によく帰るのは、風呂に入りたいからかな、、、
掃除前の焚口
煙突
掃除具を煙突に入れる
すごい煤
温度計を見ながら最高〜〜す
2024年 1月 4日(木)(新年には、「ゆず風呂」に、、、)
毎年の事ですが、年末から子供や孫達家族十数名が我が家に集合します。
今年も元気に、初詣、食事を行い、楽しいお正月になりました。
私は、お風呂好きで、最近長風呂になってきましたが、冬至に続き、新年の「ゆず風呂」に入りました。
皆に満足のいく風呂だったようです。
そのゆずは、散歩の途中で知った地元の農家であるTnkさんにもらったものです。
散歩のコースは、毎日変えるのですが、昨年11月にTnkさんの畑の前を通った時、久しぶりに出会いました。
一昨年にも会いましたが、その時に「痴呆が始まり、名前も忘れました」と言われていました。
Tnkさんとは散歩の途中に、色々なことを話してきました。
後から知ったことですが、亡くなられたご主人とは、とても仲が良かったのですが、息子さん夫妻とは、うまくいっていなかったようです。しかし、決してそれを他人には絶対に話されることは無かったようです。
話して同情を買うような人ではない、とても優しい方なんです。
昨年11月に会った時、痴呆が進んだようだと、本人も近所の方も言われていました。
その近所の人が、「息子さん夫妻との関係がしっくりいっていないのに、痴呆になると、益々厄介者扱いのようにされているらしい」と言われていた。
ところが、年末12月30日に買い物に行った時のことでした。
業務スーパーから琵琶湖大橋に繋がる(琵琶湖)取付道路を走行中、逆走でしょうか、走行方向に自転車を押してくる人がいました。
スピードを落として近くで見ると、パジャマを着たTnkさんだったのです。ご自宅からは500m位でしょうか。
年末で道路は大変混んでいましたので、駐車して対応するわけにもいかず、Tnkさんの自宅近くの知人宅に急ぎました。
その知人も散歩中に話しかけて懇意にしている方で、事情を話しました。
親戚だと言われた知人に、「ご自宅に連絡して下さい」と頼んだのですが、対応される様子がなく困りました。
Tnkさんが、ご主人さんを10年位前に亡くされてからも、以前から親子関係がしっくりいかず、ご近所でも「変わり者」としての息子さん夫婦と付き合いをされておらず、Tnkさんへの対応も前向きでないようでした。
痴呆に伴う徘徊ですが、ご近所、ご家族を含め、何かしら寂しさを感じた場面でした。
自転車の逆走?
Tnkさん?
後部車載カメラ映像
2024年 1月 1日(月)(新しい年を迎えて来年も迎えられるように思います、、、)
年を重ねると、色々と体も故障をしてきます。
新年の楽しみは、やはり年賀状です。
年賀状は、私としては毎年同じ内容では面白くもないので、少しですが工夫をこらそうといつも思っています。
20年前、私だけでも約300枚の年賀状がきていました。
現役時代、人事に携わっていたこともあり、お出会いしたこともない人からも年賀状が来ていましたが、退職と同時に一気に200枚程度になりました。
そのうち、毎年裏も表も印刷だけで、自筆は全くない年賀状には、私の方から親族以外の方には、「印刷だけで心温かさを感じれないので」と記述して年賀状をお断りしてきました。
その後、70才になる頃には、100枚程度に減らすことが出来ました。
70才頃からは、今度は、「終活のため年賀を辞退します」と言う方が多くなりました。
私も同じように、70才に数人に差し出したことがありました。
そうすると、7才年下の、昔工場にいた女性から、「もう人生を終わりにするようなことはしないで下さい」と葉書がきたことがありました。
それから、年賀状をご辞退する相手は、慎重にすることにしました。
1年に一度だけど、自筆の一筆があれば、その人を思い出されます。
今年も年賀状の左上を空けて一言も二言も書いて差し出しました。
今年もがんばって行こう!!!来年を目指して
今年の年賀状は下記の通りにしました
新たな年を迎えることが出来たことをお互いにお祝いいたし 喜びたいと思います 今年も元気に 前向きな気持ちを持ち続けて過ごしたいと決意しております