2022年

                                 

   

  • 2022年 9月13日(火) (月下美人の花が6枚。驚きだった、、、)従妹からもらったと父が言っていた月下美人。
    私は、この数十年で、一度だけ、一輪の、綺麗に咲いた花を見た。
    それ以来、見たことはなかった。
    就寝時間が19時頃なので、花弁を見せる時間には爆睡中なのです。
    この夏は暑さが続いているので咲いたのかどうかは不明だが、咲いたのは事実だ。8月にも2枚咲いたので8枚だ。
    これだけ沢山の花が咲いたのを聞いたことがなかった。
    「月下美人は洋子(私の従妹)からもらったものだから、枯らさないように」と毎年父から言われ続けた。
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    咲き終わった6枚の花弁!

                       

    2011年初めて見た花弁!

     
       
  • 2022年 8月31日(水) (長男が出張先の青森からお酒を送ってくれて。いくらでも飲めたお酒も、あまり飲めなくなって、、、)関東にいる長男が、青森に出張し、お酒を送ってくれた。
    冷蔵で送ってきたので、そのまま冷蔵庫に入れて、夕食時、ワイフと乾杯して飲んだ。コクのあるおいしいお酒だった。
    今、一度に飲める量は、お酒で半合位、350ml缶ビールで1本がやっと位です。あれだけ飲んでいたのに、、、実は、
    長男で地元を離れ生活をし、孫達とも一緒に生活させることが出来ず、殆ど毎年、年末やお盆には帰省していたにも拘らず、何故かしら親孝行が足りていないと感じ続けていた私だった。
    母は血液のガンを患い、数年間病状の床についていたが、余命を宣告された私が56才の時、妻にも言わず、そこそこに昇りつめていた会社を辞め、萩に帰省した。
    母を見送り舞い戻り、県内の経済団体や行政機関に勤務をし、65才から「エブリサンデー」となった。          
    毎日、金麦を6〜7本飲み続けた。昼前に1本、昼1本。畑仕事をしながら1本。夕食前と夕食時に2〜3本。それが7年、欠かさず飲み続けていた。
    次第に、肝臓状態を表す「γ-GTP」の数値を、次第に高めて行った。                                    
    70才の時に、100未満が数年続いていたが、遂に100を超えてしまい、かかりつけの医者から、「お酒を控えないと。既に肝臓が痛んでいます。」と言われた。しかし好きなアルコールは、数十年間飲み続けると、簡単には止められないのがお酒だ。
    まだいいだろうと判断し、飲み続けていた。
    2019年、130を超えたが、まだもう少しいいかなと、安易に考えて飲んでいた。
    ところが翌年、2月の特定検診で、遂に、196の数値になり、医者が、「すぐにでも止めないと、肝硬変から肝臓ガンになるよ。」と言われてしまった。肝臓がんと言われると、急に「まずい」と思え、その日から、一切のアルコールを断ちました。
    止めると決めたら、何が何でも実行します。飲まなくても、どうもない日々が続きました。
    4か月近く禁酒をし、再検査をしました。
    結果は、「49」に下がり、医者から「正常値です。これからもお酒も控えて下さいよ。」と言われました。その日の夕食で、金麦を買って飲みました。
    ところが、1本飲むと、酔っぱらってしまい、夕食も食べずに、横たわってしまったのです。飲めなくなったのか、もともと飲めなかった昔の体質に戻ったのかと思ってしまいました。
    それ以降、今日に至るまで、どうしても沢山飲めなくなりました。
                                       
    実は、過去を振り返ると、私は、大学に入ってから、様々な飲酒の機会がありましたが、殆どお酒が飲めない状態のままで、限度は、せいぜい、コップ1杯のビールでした。
    卒業後、関西の本社を置くGに入社し、人事担当として工場に配属されました。当時の工場の人事担当は、従業員の採用が主たる業務であり、行政機関、学校の教師(当時は、公の人との接待等が、表ざたにはされないよう時代で、どの会社も行っていました)、ご父兄等との付き合いがあり、必ずお酒の席がありました。接待を行い、如何に採用に結び付けるかが、大きな課題でした。
    飲めない私は、全社の採用を統括する当時の本社人事部のK労務課長に、「私は飲まずに採用活動をします。」と公言したことがありました。その人からは、「お酒を飲まずに採用活動ができるならやってもいいけど、それでは採用に結び付かないだろう。」と返答されました。
    1年の3分の2位を出張して、付き合いに引っ張り出して飲むことが、とてもとても辛い数年が続きました。
    飲んでは密かにゲロし、注がれたお酒は、相手にわからないように、台の下の灰皿や、おしぼりに流すようなことの連続を強いられつつも、次第に強くなっていったのです。
    昭和50年に結婚した当時、十分飲めなくて、晩酌もしていませんでしたが、社宅と同敷地内にある工場でも訪問者や行政機関との付き合いがあり、飲んではゲロ、家に帰ってもゲロをし、ワイフにトイレで背中をさすってもらい、胃液まで出し尽くし、寝床に入っても、毎度洗面器をおいてもらっていた日々が続きました。                                    
    お酒に次第に強くなり、遂には、男子寮時代にいじめにあっていた製造現場の係長と、差しで勝負することがあり、一升瓶をお互いに手酌で飲んだことがありました。その時、8合少し飲み続け、私が飲み勝ち、いじめのことを謝らせたことがありました。
    その当時から、お酒から縁が切れずに、今まで平均男性の数百年分位を飲んだでしょう。最高にお金を使ったのは、昭和60年前後だと思います。
    給与から天引きされる会社の持株会に入っており、G社の株価が、690円の時に、9,000株を売却(600万円少し)し、それを大阪の新地等にばらまいたのです。飲んでは、西宮までタクシー。時折、一流のバーに行くので、西川清や小林旭等、芸能人もよく見ました。  
    よく飲み、よじ遊び、人生の全てのことをしてきたような人生だったように思います。ワイフには、「悪かったね。」と言っても、いつも「今更!」とだけ言われます。もう頭があがりません。ごめんなさい。
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    左:2015年、次が2018年、196は2019年2月、4か月禁酒後に正常値の49に!!!

       
  • 2022年 8月 3日(水) (元会社の方とのやり取りから、懐かしい方も見えて、、、)昨年、父の喪中葉書を差し出すと、お香をいただいたり、手紙をいただいた方が何人もありました。
    それぞれ返礼やお礼の返事を書いたりしました。
    新年は、年賀を失礼する連絡をしておりましたので、殆ど来なかったのですが、長年、親交のある方々からは、寒中見舞いをいただきました。
    2月になれば、そのご返事を差し出そうと思っていましたが、ロシアのウクライナ侵攻があり、何かしら手紙を書く気持ちに、なかなかなれませんでした。
    7月になり、暑中見舞いとして、その方々に差し出しました。
    その中に、綾部時代の女子社員から、暑中見舞いに対する返事の葉書が来て、大変うれしく、懐かしく思いました。彼女は、昭和43年入社の鳥取県の方でした。
    現在、綾部市に在住の80才の方からも、丁寧なご返事がきました。
    インターネットで、その方の名前を入力検索すると、画像が出てきました。                                    
    更に写真の出処を探すと、HPにたどり着きました。
    そこには、先輩の画像と共に、現在されていることが記述されていました。
    他の方の記事を見ていると、民宿経営の女性の画像がありました。
    その方の目を見た瞬間、「あの鳥取県出身の人だ。」と思いました。
    記述されているお名前を見て、「やはり」と確信した出来事がありました。
  •                     志賀郷Watch  
       
  • 2022年 7月15日(金) (毎日、青野菜を食べています、、、)1年中、毎日、青野菜を食べ始め、9年です。
    「そんなに食べるの?」と言われますが、これで健康が保たれているのでしょう。
    その上、黒ニンニクを2粒、菊芋の味噌漬けも毎日、口にしています。
    黒ニンニクと菊芋は、親族、ご近所にも差し上げていて、健康の源のようです。全て自家製です。
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    毎朝食べる野菜!

     
          
  • 2022年 1月20日(木) (父の喪の明けを、自身で1月15日と決めていましたので、、、、)父は生前、「自分の三回忌までは、萩市の自宅を含め、可能な限り現状維持にしておいて欲しい。」と、私に言っていました。
    父が、いつも一生懸命耕作していた自宅裏の畑も、引き続き私が冬野菜も植えて収穫をし、亡き父に報告しています。今月も、萩市に帰省します。
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