2009年

  • 12月 1日(月) (自分の出身大学名を偽って話す元部下、、ああ〜哀れかな)
    前の会社にいた時に、直属の部下で千葉県にある昔の国立二期校C大学出身がいました。
    私が現在勤務しているビルのある方が、「あなたが以前勤務されていた会社の人と、M市の私立R高校のPTA役員をしていますよ。彼は自ら会長に立候補した人で、一橋大学出身らしいですね。」と言われ驚きました。
    「彼は私の元部下でした。彼は一橋大学ではなくC大学ですよ。」と応えた。
    「でも本人が、一橋大学を卒業したと、PTA役員に言われていましたよ。」
    これには、大変な驚きとともに、侘しさと、そして彼の、人としての哀れさを感じた。
    この話しを聞いてしばらくして、彼とパスポートセンターでバッタリ遭遇しました。
    「どこかで、君が一橋大学と言っていると聞いたけれど、そのような偽りは言わないほうがいいよ。」と告げた。
    彼は、「どこで、誰に聞いたのですか?」と、私に何度か聞いていたが、「そんなことを詮索するより、日頃から、まず口から偽りの言葉を発しないようにすることだよ。」とだけ言って別れた。

  • 11月15日(日) (白菜を19kg漬物に)
    白菜を移植が少し遅れたため、育ちがもう一歩だが、いつも気さくに話しをしている中のいいN氏の畑は、大きく、しかもたくさん育っている。
    「持って帰ってくれよ。多過ぎてまた捨てるようになる」と言われ、いただいた。四等分にして天日干した後に計量すると19kgあった。
    「それだけ漬けてどうするの」と言う声を聞こえないフリをして漬けた。また多くの人の口に入るだろう。
    今年は渋柿が中々入手出来ず、豊臣秀吉の居城があったN市の県内の県立大学のA氏の自宅まで取りに行った。「皮だけが欲しいので」とお願いし、たくさんいただき、白菜の中に干し皮を入れた。多分おいしく出来るだろう。

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  • 10月18日(日) (そう言えば、井上忠夫(2000年5月に死去)の訃報には呆然としたな、、 )
    青春は、常に「ジャッキー吉川とブルーコメッツ」に原点があった。
    その中核と言えた井上忠夫の報は、私に悲しい衝撃を与えた。
    今も彼の歌をギターを弾きながら歌っており、加藤和彦同様、心に残る逸材と思っています。
    ブルーコメッツのCDが見当たらない。販売もされていない。当然レンタルもされていません。
    昔のLPやドーナツ盤をテープに録音し、それをパソコンに取り込み、そしてCDに録画(パソコンは大のお友達です)して聞いています。
    石田家住宅に来訪された団塊世代の人と話しをしていて、「欲しい」と言われた人には、よく差し上げています。
    音楽を聴いていただき、同じ想いを馳せていただけるだけで、幸せを感じるおじさんです。

  • 10月18日(日) (我が青春の加藤和彦に思いを馳せて )
    加藤和彦の訃報が流れた。若かりし頃ギターを持ち、いつも歌っていたあの頃を回顧する。
    小生がバンドを組んでいた頃、毎週のように週末になると、男子寮や女子寮に居住している誰かがグループで喫茶室を開店する。その度、ギターを持ち出し歌った歌が、加藤和彦のグループの歌であったり、ブルーコメッツだったりした。
    また、同世代の者が逝った。

  • 9月25日(土) (「HPの更新がされていませんよ。どうされたの?」と、看護師さんから)
    忙しさにかまけて、更新をしていなかったのを、月1度行く医院のY看護師さんから言われてしまい、「そうだんです」と言って、反省。
    この看護師さんとは、数ヶ月ぶりに医院で目にした。この人は、素敵な(おじさんから見て)人なんです。
    以前勤めていた会社に入社した時から、十数年間、会社でエレキバンドを組んでいたけれど、その時から
    公私とも大変お世話になり、その後の小生の人生の道さえ教えていただいた亡きWさんの奥様に、とてもよく似ておられる。
    Wさんは膵臓を悪くされ亡くなられたが、亡くなられる直前、病院にブルーコメッツ(Wさんがとても好きだったグループ)の
    テープを持参して、「これを聴いて早く良くなってもらい、また一緒に演奏しよう。」と言ったことがありました。
    とにかく私にとって、すばらしき先輩だったWさんの関係者から言われているように感じ、早く変更しようと今日になる。

  • 9月23日(水) (遂に、62才に)
    二人から携帯にメールが来ました。「62才おめでとう」と。でも、この年になると「おめでとう」もどうかなと、毎年思うようになってきたな。
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  • 6月19日(金) (遂に逝ってしまった彼)
    早朝、電車に乗る前に、U君の携帯から電話がかかったが、ご子息からだった。未明に逝ったとの連絡だった。後から電話をすると言い携帯を切った。
    事務所についてから電話をした。今週始めから食事があまり入らず、昨日急遽入院し、未明に息を引き取ったとの事だった。
    ビルから望む琵琶湖は波一つなく、何も無かったような水面だが、小生の心中は穏やかならず、目から一粒こぼれた。
    〔俺の人生は、120%だった。盛大に送別会をしてくれ〕と彼は言ったらしい。葬儀は、彼の故郷である山口県下関市で行われる。
    この後、大学の友人が言っていたが、走り書きで知らせる人の名に、私の名もあったとか。
    この4年の間に、とても長くそして身近かな関係で付き合いしてきた真の友が、U君を入れて3人逝ってしまった。
    彼らは、遺言やメモなどで私に知らせるようにと、書いたもので残してくれた。先に逝った二人は、細君から、逝った日に電話をいただいた。
    1. ◎一人は、大学当時4年間、同じ下宿先にいたS君だ。静岡県伊東市でお菓子さんだった。
      下宿先は、普通の民家の二階に3部屋あり、3人でお金を出し合い、交代で夕食を作っていた。
      彼もギターがうまく、いつも二人がギターを弾きながら、そしてハモりながら歌って過ごした。
                   ブラザースフォー、ピーターポール&マリー、グループサウンズでは「星に祈りを」、「小さな日記」など、
      静かな曲を杉並区荻窪の住宅街の二階で、毎日のように歌っていた。
      当時はそれを周囲が許してくれていた。
      4年前、伊豆半島を父親などと旅行した時に、修善寺からバスで下田に抜けた。
      下田から彼の家に寄るべく電話をすると、ご子息が「今、修善寺の病院に検査入院しています」と言われた。先ほど通った町だった。
      少し電話をするのが早ければ逢えたのに、それきりになった。
      彼が逝った日に、奥様から訃報をいただいた。
      「何故、修善寺から電話をしなかったのか。ごめん。何故そんなに急いで逝くんだ。」と、大きな声を出し、彼に伝えて下さいと頼んだ。
      取り乱すようになってしまい、失礼をしてしまったあの日だった。

       
      ◎もう一人は、高校に入ってから友達となったO君だ。彼は、大学の講師をしながら萩市内で住職もしていた。
      小生の父親が、彼の住む小学校区の校長となり、彼のご両親ともお付き合いがあった。
      昨年、お正月に彼のお寺に行った。彼の弟さんが亡くなったばかりだったので、勇気付けもした。
      「また来るから」と言ったけれど、その出会いが最後となった。
      奥様から亡くなった知らせを受けて、電話を通して小生の泣き声が仏壇に響いたかもしれない。


  • 6月13日(土) (六甲道駅横のMa店で8時半に女学生とコーヒー)
    急ぎ面談しなければならず、2時間かけて六甲道まで来た。まだ8時半過ぎだったが、店は開いていた。この店の前はゴミも散乱しておらず綺麗だった。
    17時、京都駅の隣のY駅で、またもや女子学生と出会うことになった。
    駅前のベンチに座って話し始めたが、気温も高く、相談の結果、眠眠で話しを聞くことになった。おじさんの話に乗ってくれ、話しを併せてくれた九州出身の女子学生に感謝します。

  • 6月 9日(火) (新宿から赤坂へ。そして隅田川のほとりへ(昔の歌謡曲の題名を並べたわけではないけれど、、))
    学生と東京海洋大学(HPも見ていなかったので、旧 東京商船大学とは知らなかった)内で出会うことにした。
    学内のベンチに腰掛けて話しを聞いていると、ポンポン船らしき音が聞こえた。ふと見ると、コンクリートの波よけのようなものの向こうに、マストが見えた。
    聞けば、隅田川を走っている船とのことだった。
    先ほどまで、赤坂にいたけれど、全く様相が一変した。
    赤坂では、仕事の関連団体を訪問した。地下鉄の赤坂を降りるとTBSがあった。テレビの「朝ズバ 天気予報」で見ている階段を見た。(田舎から来たおじさんだから見ておくのよ)
    関係団体の場所がわからず、携帯電話をしながら団体の優しいFさんに導かれながらたどり着いた。ありがとうございました。
    驚いた。職場のあるフロアーには40人くらいだろうか女性の園だった。男性は数名のみ。「こんにちわ」と声を出したが、「田舎から出てきたような、帽子を被ったおじさんは誰なのだろう」という目がたくさんあった。
    都会のシャレたお姉さまは苦手〜〜だな。

  • 6月 4日(木) (夕暮れ時、大学のベンチに座り、女子学生と池を見ながら面談)
    京都市の北にある学校で面談をするため訪問した。造作された円形の池の傍にベンチがあり、女子学生を待った。学生が来てからも、そこで面談として色々と話しを聞いた。
    話しが終わってから担当の窓口に行き、「面談をしに来て、今終了しました」と報告した。普通ならば、そこの応接室を使用するだろうが、あのような場だからこそ、人はリラックスするし、人がよく見えるものだ。学生と会う時には、いつも「普段着で」と注文つける「おじさん」です。

  • 5月30日(土) (和歌山駅横の店で、捨てられたMa店の食べ物の包み紙を清掃するコンビニRの店員と、それを見ているだけのMaの店員)
    学生と面談するため、和歌山駅まで行った。駅の改札で出会い、すぐ傍のMa店でコーヒーを買うために並んだ。
    店の外を見ると、Ma店で買ったものを路上で食べたのか、包装紙がたくさん散乱していた。
    それを清掃しているのは、隣のコンビニRのブルーの制服を着た人だった。コーヒーが入り勘定を支払う時、店主らしき人に言った。
    「お宅のマークの入ったたくさんのゴミを、コンビニRの人が清掃しているけれど、お宅たちがしたらどうだろう。」
    その人は小生の目を見ても何も言わず、すぐに叛けた。完全に無視された。ああ〜〜っ。

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  • 5月26日(火) (一人生活のおじさん)
    今日朝、畑のレタス、大根の葉っぱを雑魚と揚げで炒めた物(ご飯の振り掛けに最適)、沢庵を持参した。これらは全て調理しなくても食べることができます。
    このおじさんが、7年前に、定年で自宅に帰るため荷物を送るので、奥さんに電話をした時だった。
    A氏「荷物を送るから」、奥さん「貴方がいない生活が、普通なの」。
    この一言で、荷物は小生がいる近くのワンルームマンションに送られてきたのである。

    これ以降、小生は、自宅で漬けた梅干やらっきょう、作ったオカズを持参しているのだ。
    ただ、難点は、すぐ食べられる物でなければならない。
    友人がリンゴを持っていったが、いつまでも置いてある。聞けば、皮を剥くのが面倒くさいからとのことでした。困ったものです。でも、これからも持参してあげるぞ。

  • 5月21日(木) (ええーーッ、よく言うわ)
    女性A「ひさしぶりーー。たまにはこういうことがないと会えないわね。」)

    仕事を終えて電車でM駅のホームを降りると、喪服を着た一団がいた。そこへ後から追いついてきた50才台のメガネをかけた女性が、大きな声で笑顔で言った。「ひさしぶりーー。たまにはこういうことがないと会えないわね。」(多分、同級生だろうか?お亡くなりになったのだろうが、まるで時折、同級生が亡くなって欲しいような思いが聞こえてきたように感じてしまった。ああーー。)
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  • 5月19日(火) (定年離婚(貴方がいない生活が普通なの、、)
    本日、二度目の記述です。16日(日)の夕刻、隣町K市のK駅近くのワンルームマンションに、前世に勤務した会社で先輩だった6才年上のA氏が住んでいるので、4月に「おかず」を持参して以来行っておらず、生きているのかどうか確認もあり訪問した。
    A氏は、7年前の定年時、それまでの20年近くを単身赴任で過ごして来た。
    山男(京都市内のD大学の山岳部に所属していた。昭和40年代の初めに、ネパール方面の登山のため、準備よろしく、先に荷物を現地に発送してから会社に休暇を申し出たらしい。ところが敢え無く休暇は付与されなかったとのことであった。その上、現地に送った荷物の数々を返送してもらう手続きをしても、荷物の行方がわからず、遂に出てこなかったらしい。)
    生きていた。毎日のお酒で肝臓を悪くして以来、お酒は断っているが、あまり部屋からも出ないため、「運動をするように」とか、「趣味を見つけて」とか言っているが、なかなか何もしないおじさんだ。

  • 5月19日(火) (電車を待つ間に、ちょっと声をかける)
    8時3分発の新快速電車が出発し、8時6分発の快速を待つのに、二列で並んでいて先頭で、もう一列に女性がいた。反対側のホームを見ると、多くの人がマスクをしていた。
    「昨日に比べ、一段とマスクを着用している人が増えましたね。」と、隣りの女性に声をかけた
    すぐ声をかける。昔の田舎では、歩いていて人に出会うと、知らない人にも声をかける。汽車(もちろん蒸気機関車)に乗ると、お隣さん等には、「どこまでいかれますか?」とか、時候の挨拶をしたりしていた。
    そんな、日本の風情は、どこにいったのだろう。私は一生声かけをするぞ。)

    その女性は、「そうですね。おおいですね。マスクをこの町で買おうと何件も店を回りましたがありませんので、M駅でやっと買うことが出来ましたよ。」と返答してくれた。
    比較的若い人であったが、そのような返答をしてくれる見知らぬ人は、ほとんどいないので、おじさんは嬉しかったな。電車に乗っても立ち話が進み、聞けば、お父さんが下関市、お母さんが長門市のご出身だと言われ、両親ともに山口県だった。
    とても身近な人のように思えた。 最近採った「こごみ」の話をすると、「おいしいし、高い」と言われるので、「すぐ近くの河川敷にも結構あるよ。見分け方は写真付きで、小生のHPを見ればわかりますよ」と言い、紹介した。
    とても爽やかな女性でした。

  • 5月17日(日) (40年間、一定体重を維持してきた)
    しばらくぶりに天然温泉サウナに行く。ここには、以前よく来たものですが、最近は、会員登録の更新(更新料金 3,000円)時に入湯するのと、登録後、無料入場券と半額入場券2枚がもらえる時くらいになってしまった。
    70℃のサウナに10分を3回入ると、1.5kg落ちる。
    小生は中学校の時に肥えていて、あだ名が「トン」でした。今でも同級生から、「トン」としか呼んでくれない人が何人かいる。
    そのため、社会人になってからは、体重を61kg±2kg以内と決め、それを超える場合には必ず範囲内に入るよう、体の調整をしてきた。いまでもそうだ。
    以前はサウナで汗をかいた後、ビールを飲んで昼寝をし、またサウナに入ることを続けていたが、西城秀樹氏がサウナのよって倒れたという報道から、アルコールは入浴後でなければ入れないことにした。

  • 5月14日(木) (めずらしく京都市内の短期大学を訪問)
    初めて来る学校だ。正門を入ると、「和」、「美」を建学の理想としており、何回か、この文字が目に入る。ご担当は、秋吉久美子に感じが似た方(当日、この名前が出て来ず、思わず若かりし頃の奥村チヨを思い出して言ってしまいましたが、、)の方と、とても好男子の方でした。この男性から初めて問い合わせの電話があり、小生がアドレスを聞き、訪問する旨のメールをした。その件名に、「○○でござんす」と記述して送信しちゃった。この男性の返信には「タイトルから笑わさせてもらいました」と記述してあった。
    これによって、お互いに少しだけ打ち解けることが出きたかな。?

  • 5月13日(水) (玄関のドアが開くと、立ってお客様を待つ会社)
    事業所訪問で長浜市にあるS社を訪問した。この会社は大変お客様を大事にしてくれると、最初に訪問した時から思っている。事務所から30〜40m離れた所に駐車場があり、事務所からは車を見ることができる。車を確認すると、事務所の自動ドアが開く前に事務所の担当者が待ち構えて、「いらっしゃいませ」と応対される。いつも気持ちのいい会社だ。
    今日は、担当のMさんを訪ねた。非常に明るく応対していただける方で、話をしていて気分爽快になる。今日は個人的なことを聞いてしまった。聞けば、お子さんは男の子が二人(麻生さんなら「義務を果たしている」と言うかも)らしい。(ちなみに小生は息子が3人(「義務以上の貢献」と、誰かさんに言われるかもね)) 彼女のお子さんは、きっと明るいお子さんだろうな。また、来て拝顔し、元気をいただきたい人だ。

  • 5月10日(日) (@マムシと闘うぞ A「こごみ」が土のう袋に満杯)
    美山で、田んぼの草刈りをした。畦の草を刈っていると、回転する刃の向こうにマムシがいた。マムシはアオダイショウと違い、回転する刃があっても、すぐには逃げない。突くと歯向ってくるので、敢えて刃を当てようとすると、即座に2〜3mは逃げるが、止まってから舌をハーハーさせながら、こちらを睨んでいる。
    田んぼに置いていた鉾を取りに行って戻ると、もういない。素早いから。今日は、2匹に遭遇したが、次回は、必ず仕留めてやる。
    自宅への帰りに、またいつもの「こごみ」群生地に行った。最後となるかも知れず、今回は土のう袋に満杯になってしまった。数kgあるかな? 時価数万円かな?

  • 5月 7日(木) (「こごみ」をあげる)
    連休の谷間であるが出勤だ。「こごみ」と「ブンタン」をスーパー袋に何袋か詰め込み、リュックに入れて出勤した。重いけど差し上げて喜んでくれる人に渡した。

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  • 5月 4日(月) (「こごみ」の刈り取り)
    石田家から自宅に帰る途中の峠近くで、「こごみ」を摘み取った。川の傍に群生しており、大きなスーパーの2袋に、はち切れるほど採った。
    自宅に帰り、新鮮なものを鷲掴みにしてスーパーの詰め込み、ご近所さんや、畑仲間に差し上げた。

  • 5月 3日(日) (@鹿や猪の防護ネット取り付け A木に登りチェーンソーで枝切り)
    今日は田んぼの周辺に、鹿避けの柵を設置する予定だ。8時までに、従来使用していた動物避けのトタン、杭、網を、昨日3時間、今日は早朝から3時間近くかかり撤去して収納した。
    鹿は集団で数十頭が、毎夜山から荒らしに来る。夜、電池で照らすと、あちこちに目だけが何十にも光るのがわかる。彼らが少しの隙間から侵入して、畑や田を荒らすのである。最近は、以前食べていなかった「マツタケ」、「みょうがの葉」まで食べ尽くしてしまう。それを避けるための対策だ。
    それが終了し、道筋の木々をチェーンソーで切り落とす作業だ。大きな栗の木を切るために木に登り、命綱をしっかり着けてチェーンソーで切る。道路上であるため、車も人もない事を確認して切り落とす。大きい木が音を立てながら落ちていく様子に感動するのだろうか。やったーと。。。

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  • 5月 2日(土) (萩から美山に行く)
    交通情報によれば、今日の下りは大変混雑するとのことで、大阪方面の下りでは、宝塚トンネル付近で50kmを超える大渋滞らしい。
    朝7時過ぎに萩から山口インターに入り、来た道を美山まで帰る。上り方向でもあり、混んだとはいえ、比較的スムーズに走行出き、美山に着いた。

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  • 4月30日(木) (萩の甘夏は不作で、ブンタンを収穫)
    朝から、萩城の近くの友人宅へ出向く。広い甘夏みかん畑があり、毎年手伝いをして二級品をいただくのだ(いただくと言っても、父親は支払いをしているようだが)。
    毎年、この甘夏を30kgの米袋に7、8袋持って帰る。友人宅で出荷出来ない甘夏は、誤って地面に落ちた物や、皮に傷が入った物等で、すべて不良品になる。これをいただくのである。
    新聞紙に包んで冷蔵庫に入れておくと、約2ヶ月程度は保管することができる。
    甘夏は不作で、いただけるものがほとんど無かったが、「ブンタン」をたくさんいただいた。

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  • 4月29日(水) (7時間強で萩に帰省したが、昔高速で15時間かかったことが、、)
    想ったほど混んでいなかった。綾部JCT辺りは霧が深く、100m先も見えない程であったが、平野の広がる福知山方面では全くなく、太陽の日差しも車に差し込んできた。
    吉川(よかわ)JCTからの中国道もスムーズに進んだが、次第に車の数も増えてきた。それでも、まだ少ない。
    十数年前だったが、萩に帰省するため、同じ中国道を通り、大混雑に遭遇したことがあり、15時間以上かかった。特に、広島北インター近くでは、全く動かない時間がかなり長く、車を降りて犬を散歩をしたり、ノロノロ運転の横を人が散歩がてら歩いたりする光景もあった。
    こういう時に困るのは女性の生理現象だろう、男性は、道路を横切り適当にしているが、女性は、たいへんだろう。
    萩までは約570Kmだで。休憩時間や食事時間を入れても7時間強で帰れた。

  • 4月28日(火) (陽が落ちる頃聴く裕次郎の「北の旅人」が、心を揺らす。U君ごめん)
    今日は、午前中で仕事を終了した。高速道路が祝祭日1,000円となったが、滋賀県から山口県に帰るには大都市圏(大阪)を通るため、千数百円余分に必要となる。
    混雑を避けるため都市圏を通過しないように、美山町に宿泊して29日早朝、綾部方面から中国道に抜けて帰ることした。
    美山町の山中で、「こごみ」の群生地に足を入れたが、まだ少し早かったため、帰りに収穫することにした。
    夕刻、陽が西の山頂に落ちる前に、ビールを飲みながら石原裕次郎のCDを聞いていた。
    大学時代のU君の好きだった「北の旅人」を聞きながら彼を思い浮かべると、、、、、。ジーンとしてしまい、無意識のうちに彼の自宅に電話をしてしまった。
    ダメとはわかっていながら、また「人目だけ会いたい」と声を発してしまった。
    困らせて申し訳なかった。ごめん、ごめん。
    夕日が落ちて暗くなるまで、ただ遠くを見つめながら「北の旅人」を、何度も何度も聞いていた、、、、、。
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  • 4月26日(日) (まだ生きていて欲しい、U君)
    とても悲しい出来事がありました。これを記述するのがいいのかどうかも迷いましたが、敢えて記述しました。
    U君に電話した。いつかはそうなることは聞いていたが、まさか今日が最後の会話になろうとは思ってもいなかった。
    彼が住んでいる近くの大学に、連休明けに行くので会うことと、昨年からの約束だった石田家への招待の話しをするつもりだった。
    U君「今、電話で話すのもしんどい。散歩にも出られない。連休明けには、もうあの世かもしれない。わっはは(笑い声)」
    小生「外に出ることが出来ないのなら、家に行くから顔だけ見せてくれ。石田家には自宅まで迎えに行くから連れて行くよ。」
    U君「最近は、真近かに来る死を如何に迎えるかの話しを聞くため、ホスピスに通っている。
    体重もかなり減少しており、こんな自分を見せたくない。石田家住宅には、とてもいけない。」
    彼の声を聞きながら涙が溢れ出し、絶句してしまいました。
    話すのも辛いようなので、息子さんに代わってもらった。
    「父親には、出来ればメールがいいのでお願いします」と言われ、アドレスを聞いた。
    そして、このホームページを見てもらうよう頼んだ。
    電話をおいてから、長い間呆然とした時間を過していた。
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  • 4月24日(金) (久しぶりの立ち飲みと共同ソースの思い出)
    22日から連続で大阪となり、今日は西宮方面まで行った。夕刻阪急電車で梅田に到着した。
    夕方の梅田、それも阪急の梅田となれば、どうしてもJRのガード下が私を呼んでいるので足が向かう。
    懐かしき「松葉」の暖簾をくぐる。ここは昼から営業している立ち飲み屋だ。あのおじさん(といっても、小生よりは若いけど、頭のKが少ない)もいる、あのおばさんもいた。
    揚げ物は、大き目の金属の中に入った共同使用(食べるものをソースに浸けるのは一度だけですよ。(時折、二度付けをする人もいたが、、))のソースだ。
    このソースを見ると想い出す。十数年前に大阪で会議があった。早めに終わったので、6才上のA氏、M氏の3人でこの店に入った。
    A氏は京都のD大学の山岳部にいた人で食べ物は何でも食べる。小生も似たようなもの。(お腹が空くが、金がない学生時代は、友人が残したラーメンの汁も、お互いに飲んでいたんだよ)
    ところが、M氏は無菌室で育ったような人だ。九州の旧帝国大学の馬術部にいたのに。どうしてなのだろう。このソースが共同と聞いて、「個人毎に新しいソースは無いのか?」と言われるので、「ありません。ダメなら浸けなければいいのでは?」と言った。
    仕方なしに揚げ物をソースに浸けて食べられた。
    驚く無かれ(この言葉は、菅原道真も使って詠んだよ。「駅長莫驚時変改 一栄一落是春秋(駅長驚くことなかれ 時の変わり改まるを 一栄一落、これ春秋)」という漢詩を読んでいるが、これは藤原時平の陰謀によって失脚し、大宰府へ流された道真が、流されていく途中で立ち寄った宿駅(大山崎)の駅長の同情に対して応えたもの)、A氏も小生も翌日何のことは無かったけれど、M氏は「ソースがあたったのかな。お腹の具合が悪い」と言われていた。
    皆さんはどうですか?

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  • 4月16日(金) (遂に、高校生がタバコを吸うのを叱る。年寄りを大事にしてくれよ)
    夕刻、K駅近くに用事があり行った。帰りであった。駅のホームで、遂にしでかした。階段を下りると、待合室に入ろうとした老女が、入らずにこちらに歩いてきた。待合室を見ると、高校生らしき人が2名いた。一人の生徒がタバコを吸っていて、部屋中が煙だらけだった。それで老女は入れなかったのだろう。
    「高校生がタバコを吸っていいのか。しかもこんな狭い部屋なら、誰も入れないだろう。」と怒鳴ってしまった。「わかっています。」と言いながら吸うので、「交番に連れて行く」と言うと、部屋から出て行った。近くにあるA高校の生徒だ。
    残念なのは、それを見ていた駅員も注意せずに見過ごした行動だ。  あ〜あ 日本はどこに行ってしまうのだろうか、、、

  • 4月15日(水) (清楚な貴婦人みたい、、)
    今日は奈良県下の学校だ。最初の訪問先では、担当が不在であったが、担当外であった方が応対された。昨年秋から民間から転職されたようだ。社交性のある方で、民間経験豊富な能力を発揮されるだろう。
    某大学では、昨年から女性が管理職としておいでになる。昨年お出会いした時、若かりし頃の司洋子と、人柄は何となく松原知恵子というイメージを感じた。とても物静かで、次に何を話そうかなと、戸惑いを覚えてしまうこともある。
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  • 4月13日(月) (忽然と姿を消した我が友人夫妻)
    久々に大阪に出る。大学訪問を終えて、高校の同級生に出会う。
    小生が昔から仲の良かった某君が、同じく同級生の女性と結婚していた。彼女とも友達で、夫婦の家には、昔よく行った。3月末に萩に帰った時に、会社を経営していた彼ら夫妻が、年末から忽然と消えてしまったという噂を聞き及んでいたので、自宅を訪問してみた。門札は無く入り口の木戸に鍵も掛けてあった。
    丁度その時に、斜め前のおばあさんが通りかけたので、「ここの人はどこに行かれたか、ご存知ありませんか?」と聞くと、「年末から留守で、どうも死んじゃったらしいと聞いたけど」と言われ、唖然としていた。
    その女性と高校の時に仲の良かった人が、今日出会う人だ。京橋で出会い、消息を聞いたが、最近は連絡もしていないのでわからないとの話だった。
    昔ながらの人が逝ったり、行方が判らなかったりすると、本当に悲しいものです。彼女のことを色々と聞いていると、ご主人は美山町の近くの出身だとのことで、非常に身近に感じられる人が増えた。「また会おうよ」と言って別れた。
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  • 4月 9日(木) (競馬に凝った数十年。自分の小遣い20万円を知りつつワイフが更に10万円くれて。随分JRAに貢献)
    企業訪問で某スポーツクラブを訪問した。そこでは乗馬クラブも経営しておられ現場に行って見た。
    鞍を清掃されている50才代(かな?)の人に声をかけて話しを聞いた。「クラブに入り7年目で未だ初心者と言われる。馬が生き物であり、乗馬する人に応じて態度を変えるから、いつまで経っても、全ての馬に通用する技術を身につけることが出来ない」と言われた。
    厩舎にいる馬を近くで見ていると、同じような顔をしているけれど、やはり皆違う。
    馬を遠くで見ながら応援する休日のお仕事(説明文は下記のとおり)も数年前に止めた。     
       4月2日に記述した長男が、まだお腹にいた昭和51年1月5日(メインレース:金杯)に、一人着物、下駄姿で、「出かけてくるわ」と言い駅に行こうとした。「いくらあるの?」と聞かれ、「20万円弱だ」と応えると、「待ってて」と言って奥の部屋に行ってから「これを」と、10万円渡された。
      「じゃ行ってくる」と言い残し駅に向かい、列車に乗り3時間かけて馬場に出向いた。夕刻帰りの汽車賃だけを頼りに自宅に戻った。結果は、話さない、聞かない。
      この時に決めたこと。年間30万円のレース代にしよう。パチンコ等は止めよう。
      翌年からは、100円単位で購入し、どうにか1年間遊べるようにしてきたが、1年を振り返れば、いつも空。
      馬場まで遠いため、電話投票権に応募した。かなり高い倍率であったが、一発で当たった(当時は抽選でした)。運が余程いいのだろうか、行いがいいのか??それから29年間が経過して止めた。
      改装された馬場の一部に、小生の注ぎ込んだものが形として現れているのだろうな、、、。
      小生は、いつものことであるが、「過去は振り返らない。ifの過去形を思っても、仕方ないことを十分認識しているからだ。人生、先を見て生きるのみ。

  • 4月 2日(木) (ワイフの実家はすぐ近くだが、遠く離れた小生の実家で出産させる???)
    今日は長男の誕生日だ。おめでとう。
    当時、ワイフの実家から車で30分少々のところに住んでおり、誰もがワイフの実家で出産するのだろうと思っていたようだ。ところが、若かった勢いもあり、また粋がっていた私は、「長男」、「長州萩の出身」で男気があるのだと勝手に思い、遠く萩市の私の実家で出産することを頼んだ。不承不承だったかも知れない(聞いていないから)けれど、「はい」と言い、その準備のために1ヵ月前から帰った。小生がこの10年くらい前から回顧録(将来子どもに読ませるための)を作成しているが、そのひとコマを下記に写します。

        
      (前は省略)私は長男であり、将来は萩に帰る。その時に、私の両親と意気投合してもらわねば、みんなが困るとの思いが強くあったため、出産を通じてお互いに仲のいい関係を作ってもらうことが目的だった。これにお母さんは忍従だと思ったのだろうか、黙って了解してくれた。
      ところがこの話は、会社の人や社宅の人からすれば、とてつもない非情な夫の行為だった。社宅は200戸以上はあっただろうか、その中で、「主人の実家で出産させると言う話は聞いたことがない。奥さんがかわいそうだ。」と私は、色々な人から言われた。
      それでも、車で30分で行けるお母さんの実家で出産させようとはしなかった。私は今でも思っている。この帰萩によって、その後のお母さんと萩の両親との絆は、本当に強いものになったと、今でも思っている。お母さんの当時の思いや考えは、聞いていない一方的な私の考えだった。比較的順調にお腹の中で育ってくれた。
      予定日は3月31日だったが、4月2日以降に産んで欲しいと、これまた勝手なことを言っていた。その違いで学年が一つ下になるからだ。
      1月末まで勤務し、動き回り、しっかりと運動をして大きく育てようと努力をしてくれた。大阪発福知山経由博多行き「特急 まつかぜ号」で萩まで一緒に帰った。両親によろしくお願いして、その日を待った。
      萩の母は、長男が嫁を連れて帰り、子供を萩で産むことを大変喜び、「石田家の方に申し訳ない」と、よく言っていた。この行動は、萩では大変羨ましく思う人がたくさんいたらしく、後日、今は亡き母親から聞いた。(以降、省略)
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  • 3月31日(火) (スピード違反検挙なし。昔も今も、ネズミ捕りの場所が同じとは、、、)
    ワイフを小生の父親のところに残し、一人9号線で滋賀県へ。
    朝7時に萩を出発し、途中で食事30分、休憩を数回約30分取り20時前に着いた。工程距離は約600kmだ。12時間運転していたが全く苦にならない。
    22才で就職してから、毎年2回の帰省と仕事で、年に10回くらいは9号線を京都府下から益田市まで走行してきた慣れた道で、道路の様子の変わらないところでは、「ねずみ捕り」の場所も当時のままだった。
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  • 3月27日(金) (道路上の自動速度監視機も、取締り速度を変更している、、)
    早朝3時半に自宅を出て、4時までに高速道路のゲートを通過した。これで10,700円の高速料金が5,400円と、半額になる。
    曇天なので暗い中の走行だったが、兵庫県を通過する頃には明るくなった。滋賀県の木之本から北方面や、美作(岡山県)方面では、降雪のためチェーンが必要とのニュースを聞く。
    この5年間で、もう数十回の帰省となる。広島からは1時間で防府インターだ。自動速度監視機も、位置する場所を全て知っているので、覆面パトだけ注意すればいい。二人乗り乗用車が後ろにいたら注意するだけだ。これをいつも怠らずしておいたから、スピード違反で捕まったことは、免許を取得以来一度もない。
    高速道路の監視機は、時たまであるが、場所が変更になることがある。またオーバーして違反となる速度も、時により20km以上であったり、25km以上であったりと、時々変更されているらしいよ。
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  • 3月23日(月) (似ている。あの紀香さんに、、)
    今日も京都だ。某大学のご担当者が封筒の宛名貼りをされていた。便利になったものです。初めてお話をさせていただいた。
    とても清楚な方で、目が吉本興業のJさんの奥さんである、あのNFさんに似ているような気がした。(翌24日に離婚発表したけれど、「Jさん 何故あんな素敵な人を奥さんにしながら他で、、、(もったいないことを)」。)
    守衛室を出る時に退校時間が14時40分過ぎで、入校時間が13時27分だった。長いこと話をさせていただき、ありがとうございました。
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  • 3月14日(土) (@餃子のO店は、管理の引き締めが必要か Aビートルズの思い出  Bまた禁煙場所の喫煙者に注意)
    その@ 雨で畑にも行けない。昼前に電車でK駅のすぐ近くにあるO店へ餃子を食べに行った。
    このチェーン店の餃子は、皮が少し厚いので、あまり好ましくないけど、他に安い餃子を食べさせてくれる店を探すことができていないため、度々行く(当然毎度のことですが、ビールを飲みながらですぞ)。
    この店では色々なことがあった。あれ以来、店長はまともに小生の顔を見なくなった。どう思っているのかな?
    昨年12月に食べた「ニラレバー炒め」は野菜が焦げていて、もったいなけど、それだけは食べられなかった。この時はデジカメを持っていたので撮影しちゃったけど、店の人には何も言わなかった。
    その前の月に、同じ店で食べた「ニラレバー炒め」のニラが、何本もの黄色く枯れた部分が炒められ出された(デジカメ持参していなかった)。言おうか言うまいかと思いつつ、大半を食べてから店の人に申し出た。「どうさせて もらいましょうか?」と店長が言ったけれど、「いいんですよ。これから気をつけて下さい」と言っただけだった。
    優しいおじさんだこと。(こういう時には、自分で自分を褒めましょう)           

    焦げた野菜だよ

         

    今日は、「そのA」もあります。食べた後、駅の反対側にあるD店に行き、大工道具を見に行った。
    大工仕事をよくする(床の張替え、木製の網戸作成、網戸の張替え等をした。畑の小屋は、リフォームする家の前にあったコンテナにあった古材をもらい作った。)が、鋸の目立てをする鑢(やすり)をよく使うので、新しいものを手に入れるためだ。大工道具の中では特殊で、あまりたくさん売れるものではないのか、結構な値段がするため、買わなかった。

              

    床を剥がして材料を置く  カンナ削りは、お手の物  床下には炭を入れ防湿効果を高める  玄関の木製網戸作成


    網を剥がす   長さを併せテンションを調整しながら溝を押す(網は、この幅、長さ50mで3,000円:何と安い購入元)


    今は改造して観音開きのドアです

    この店のBGMはいつもビートルズだ。
    小生はビートルズの日本公演を見に行ったのですぞ。昭和41年に学校に入ってすぐだった。どうしても行きたかったがチケットを入手できなかった。
    たまたま同じクラスのI君(薩摩出身)が持っていた。彼はどう見ても、公演に行くタイプではなく、聞けば誰かに売却する予定にしていたようだ。
    「売って欲しい」と頼むと、「10,000円だ」と呈示された。A席2,100円の入場券が5倍近くになるため止めようかと思ったが、二度と見ることが出来ないだろうと考え購入することを決めて、値段の引き下げ交渉をした。
    結局、9,600円を下回ることは出来なかったので購入した(生活費が不足分となるこのお金は打電で解決だ)。
    7月1日の東京はとても暑かった。指定席なのに早くから並んだ。会場では、各通路に救急隊員や消防隊員等が、タンカーを持ち込んで並んでいる。公演開始から僅か35分で終了したが、演奏する音楽や歌よりも、周辺にいた同世代の女性の声の方が大きく、音楽鑑賞にはならなかった。多くの女性が失神してタンカーで運ばれる場面ばかりを見た世紀の一大公演だった。
  • ビートルズ公演入場券   ◎当時の様子を記述したHPです。

       

    そのAを作成出きたところで、「そうだ」と思い出し、そのBを記述します。
    D店を出てK駅のホームに行くと、禁煙場所でタバコを吸っていた30才くらいの男性が、足で火を消してから自動販売機の空き缶入れに吸殻を入れた。傍には小学校低学年らしい集団がいて、その男性の仕草を見ていた。
    またもや言ってしまった。「ここは禁煙場所。社会のマナーは守ろうぜ」と言うと、素直に「すみません」と頭を下げた。「傍で小さな子どもが見ており、大人らしい行動をしよう」と告げた。
    電車が着たが、同じ車両に乗るのかなと思っていたが、乗る直前に、彼は別の車両に急ぎ乗った。格好悪いと思うだけでもいいのかな、、。
    電車が走り出してホームを見ていると、また若者が吸っていた。過日記載した「マナー向上」と思ったのは、やはり間違いか、、、。


       
  • 3月11日(水) (面白い、忘れっぽくなった人の名刺)
    仕事で某社を訪問してN社長と話しをした。社長は83才だったか、とても元気で活動的な人である。見て下さいと名刺を出された。おっととと、名刺のようで名刺じゃない。よく見ると、こう書いてある。「Nです(改行) 失礼ですが、、、(改行)  加齢と共に お名前が思い出せません」  このようなことは日常よくあることです。出かけていて誰かに苗字を言われても、その人の名前が思い出せなくても、「どなたでしょうか?」と言葉に出して言うのは、とても失礼だし、知ったふりをして会話を交わすが、別れてから思い出したり、遂に思い出せなかったりすることがある。「どなたでしょうか?」と言う代わりに、そっとこの名刺を出すのは、とても好感が持てる方法だ。数枚程度なら作っていてもいいかな。

  • 3月10日(火) (昔、電車内で高校生に喫煙を注意。相手が小生の素性を勘違い(させた?))
    隣の事務所にいるI氏から、石田家住宅ホームページのうち、雑感を読んだ感想の中で、「知らない人に注意などをすると怖いので、気をつけて下さいよ」と言われた。先日記述しなかった、こんなこともあったと話した。
      @20年くらい前だっただろうか、大阪駅から電車に乗ると、高校生4人が社内でタバコを吸っていた。すぐに禁煙を注意した。
      「おっさんは誰やねん」と言うので、黒い名刺入れを開いて名刺を出す素振りをした。それを見た高校生は、すぐタバコを消して新大阪駅で逃げるように電車を降り走り去った。
      名刺を入れているフォルダーの反対には、定期ではなく、仕事の関係でもらった警察関係者の名刺があった。どうも高校生は、その名刺を見たのでタバコを消して逃げたのだろう。

  • 3月 8日(日) (野菜などを差し上げて、後から感想を言われた人には、また上げてしまう)
    畑作りの仲間でN氏がいる。同い年でとても気が合う人物だ。彼も随分野菜を作っているが、他人にあげるほうが多い。小生もそうだ。「他人に野菜をあげて、「あれはおいしかった」とか言って、感想を言われると嬉しくなって、またあげる。食べた感想を言う人に対して、作った者の「あげてよかった」との嬉しさが出るんだよな」とよく言う。小生の場合も同様だ。おいしかったよ等と言われると、またあげようという気になる。おかしなことだけど。。
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      (「えらい目をして畑等、よくするわ」と思っていたおじさんが豹変4年前に10坪だけ借用(無料:草が生えるから貸す人がおられる)し、野菜作りを始めた。
      それまでは「畑仕事はしんどいのに、買う方がよっぽどいいのに」と思っていたが、時間的に余裕が出来たので少し借りた。種を播き芽が出て次第に大きくなる様子に魅せられてしまった。
      2年前に隣で借りていた80才を過ぎた人が畑を返却された。誰かに借りてもらいたいと小生に言われた。聞けば、10坪の畑は、いつも草が無いほどによく手入れをしているかららしい。
      それからは、60坪の畑の手入れをし始めた。今では、野菜は年中買わない生活だ。

  • 3月 6日(金) (自分で鏡を見ていると、そんなに老けていないと思うけど、実際には確実に「老けている」ことを、実感できない(いや、しない)老人
    仕事を終えて歯医者に行った。「奥歯の奥」の歯茎の中に親知らずが横になって生えており、時々奥歯を刺激するので治療だ。虫歯が1本(奥歯)だけの優良児で、以前から歯医者は「80−20ですね」(80才なっても20本の歯があること)と何度も言っていた。今日で様子見を含めて5回目だけど、こんなことを言われた。「歯茎も年を取る。痛みを無くすためには、奥歯を抜く必要があるが、まだ丈夫であり今抜くことは無い。5年くらいは、少しの痛みを伴いながらいた方がいい。我慢が出来なくなった時に抜きましょう。人間が老いていくと同様、歯も老いていくのです。」。「老いていく」という言葉を何度も言われ、今日は本当に「老いていく」ことを実感した。鏡を見ていると、皺、白髪、しみを除けば、目は昔と同じで年を取っていないと、いつも思っていたけれど、そんなことはない。やはり「年なんだ」と、思いつめてしまった。

  • 3月 5日(木) (61才から毎日、約4kmのランニングを開始)
    久しぶりに朝から好天気だ。6時前に、4日ぶりにランニングをした。61才になるまでの4年間、雨、雪が降らなければ1年中約4kmを早足で歩いていたが、61才になってからランニングに切り替えた。今日は気分もよく一度も休まずに走れた。
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  • 3月 4日(水) (朝、3時からの「NHKラジオ深夜便」がお友達)
    今日のNHKラジオ深夜便3時台では「春を待つ歌」だった。東京少年少女合唱隊が歌う「早春賦」を聴き、いよいよ春という気持ちが一段を湧いてきた。
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  • 3月 3日(火) (@駅ホームで、喫煙を注意  A昔こんな注意をした(電車で横になって寝ている酔っ払いに注意(危機一髪かと思われたが、、)
    仕事を終えて近くのJRの駅まで歩く。とても寒く、みぞれが少しだけ降っていた。
    ホームでタバコを吸っている人がいた。喫煙所はホームの端であるが、堂々と吸っていたので、「マナーを守って下さい。喫煙所は向こうです」と言うと、「すみません」と謝りながら消していた。
    今年最初に注意した人だが、昨年の8人より忠告スピードが遅いので、マナーが向上しているようだ。一昨年は12名でした。
    このように忠告した話しをすると、友人も家族も、「危ないから止めて」と言う。それが出来ない危ないおじさんです。
    類することで思い出すことがある。     
      @昭和56年、阪神電鉄梅田駅から電車に同僚と一杯機嫌で乗車し、甲子園を過ぎた頃だった。
      立っている人も多いのに一人の男性が横になって寝ているのが目についた。悪い癖で、同僚が「止めておけ」というのを振り切って、「お兄さん たくさん立っているのだから起きて席を譲ってあげて」と言った。
      気持ちよさそうに寝ていたところを起こされ、「何 ちょっと来い!」と言われた時に西宮に着いた。乗り換えしなければならないけれど、「わかった」と従った。
      同僚は「一緒に帰ろう」と言っていたけれど、「先に帰って」と言い、男について行った。
      何かあったらと構えていたが、すぐ傍のうどん屋に入り、「背広組みが、俺のような男に、よく声をかけてもらったと思う。お礼におごるぜ」と、飲ませてくれた。その後、その勢いで、バーにも連れて行ってくれた。後日、西宮のパチンコ屋で、一度出会っただけだった。
     
      A昭和58年、西宮市に住んでいた時に、家族で外出した。阪急電鉄梅田駅の1階で、朝早くから二人の若者が喧嘩をしていた。多くの人が遠巻きに見ていた。それを見て、両手と背中(計3名)に息子連れたwifeが「お父さん行かないで」と言う間に止めに行き、二人の間に割り込んだ。一人が「何だ?」と意気込んで私に矛先を向けてきたが、その時に警官が駆けつけた。ヒヤヒヤの小生も安心した場面があった。
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  • 2月26日(木) (学生時代には、よくダンパ(ダンスパーティーの学生略称か?)に行ったものだ)
    毎日同様、3時に起床した。毎日、3時5分から5時まで、NHKで放送(第一、FM同時放送)する「ラジオ深夜便」を聞いている。今日の3時台は「青江三奈特集」だった。伊勢崎町ブルース、新宿ブルース、池袋ブルース等を聞きながら、ホームページの更新作業を行なう。音楽を聴きながら思わず口ずさんでいた。懐かしい曲ばかりで、よくホールで踊ったな、、、。(「目黒パークレーン」、「サンケイホール」という所には、本当によく通った。)

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  • 2月18日(水) (老いない方法だ!)
    早朝読んだ単庫本の文中から見つけた言葉
        ☆人は、年をとるから老いるのではない。理想(小生は「目標や希望」も加えます)を失った時に老いるのだ
     サミュエル・ウルマン(アメリカの詩人)

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  • 2月 9日(月) (友よ。お互いに元気でいようぜ)
    東京に出張し、田舎の友人N君と新橋で昼食を取る。相手を見て「老けたな」と思ったが、他人から見ると自分自身も老けているのかな??過日、日本テレビで「安田講堂事件」が放映され小生は釘付けになった。この放送を新幹線の中で思い出し、彼(当時、この学校に在学し、試験ができず全員が留年)と連絡を取り会うことにしたのです。(動機が悪くてすみません)
    彼は、昭和44年1月の「東大闘争」当時に在学していた。
    会議が終了し、これまた一杯やろうと、東京駅で大学時代の友人と出会う。彼に忠告しなければ。「飲み過ぎないように!!」

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  • 2月 7日(土)初めての味噌作りを体験
    思ったほど難しくは無く、どの家庭でも簡単に出来ますよ。半年待てば「マイ味噌」を食べます。
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