石田家住宅の概要
所在地 :〒601−0777 京都府南丹市美山町樫原
アクセス:JR山陰本線「和知」駅から車で約15分(大野ダムより車で3分程度)
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写真で石田家を観る
南の縁側
おもて(父母の部屋)
三層構造の萱(写真の左から内側:おがら、中側:わら、外側:萱)
歴史(資料:「重要文化財 石田家住宅修理工事報告書」他)
昭和42年の調査では、慶安5年(1652年)7月(祈祷札:管理者(滋賀県在住)が保管)の建立と考えられていたが、
解体工事中に、慶安3年(1650年)3月31日の墨書が発見された。
この建物は慶安3年以来、昭和42年まで解体されていないことが判明し、
庄屋を含む農業を営む民家としては、日本最古のものである。
北山型民家で、南は京都洛北、北は若狭湾まで分布し、石田家は北山型の最古の遺構とみられる。
江戸時代の樫原は、園部藩の領地で、田地9.4町歩、高161石の小さな村で、上組、下組に分かれ「庄屋」がそれぞれいた。
石田家は上組の一員で、先祖は庄屋を勤める家筋であった。
庄屋の家柄であるとは言っても、石田家の所有地は、屋敷二ヶ所五畝一歩、田三反二畝十歩、畑一反一畝二十九歩、持高四石四斗九升の小農であった
安永の末年頃からは「庄屋」は1名になり、庄屋の下には「年寄」、その下に「組頭」がいた。
庄屋は代官から任命され、戸長制度が出きる明治5年まで続けられた。
村の産業は、水田耕作、畑作、林業が中心であったが、宝暦頃から、たばこ栽培が行われていた。
古文書によると、享保時代の中頃(1730年頃)、村には約40頭程度の牛がいたが、
寛延時代(1750年頃)、牛も12頭に減り、そのうちの10頭が質入れされ、耕作にも支障を来たした。
宝暦時代(1760年頃)から始められた煙草栽培は、この苦しみから脱するために始められ、時の石田源右ェ門も相当努力したものらしい。
石田家には、系譜、由緒に類するものがないので不明であるが、年貢帳、口上書、証文等に見える記載からすると、
江戸時代には「源右エ門―源吾―源蔵」と続いた。
石田家の家格は、源右エ門のように長く庄屋を勤め、また明治18年の源吾が村総代を命じられたりしたことで判るように、村の枢要の地位にあった。
発見された祈祷札(慶安五年:1652年)(黄色い部分をクリックすれば大きい写真になり、「慶」、「安 五」、「年」の文字も読み取れます。)
解体復元工事から
◎1973年10月より解体工事開始 1975年3月末に復元完了
◎個人の資産が文化財に指定されると、大変な出費になります。
こんな一句が浮かびました。
「文化財 なれば先祖の名誉にも 嬉し悲しの 負担ばかり」
石田家を紹介するホームページ
◎ルチルのある景色(石田家屋内の写真がきれいです)
◎茅葺民家の美
◎らくらくウォーキングクラブ
◎アタの雑記
◎全国重文民家の集い